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大竹謙治

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

地域の足を担って

大竹 謙治 (おおたけ けんじ)

生年1878 没年1956

頸城鉄道の創設

大竹謙治は、1878年(明治11年)11月12日、百間町(現頸城区)の大地主山田又治の末っ子として生れました。20歳のとき、東京の高等商業学校(一橋大学の前身)に在学中、下増田新田の大潟開発地主大竹家の養子となりました。
1911年(明治44年)ころ、山田家では辰治(謙治の兄、山田家長男)を中心に東頸城に向けて軽便鉄道建設の話が進められました。
1913年(大正2年)、頸城鉄道株式会社を創立、謙治が社長となり本社を百間町に置きました。1914年10月1日、初めて新黒井・下保倉間を汽車が走り、翌年5月5日には浦川原まで全線(1キロメートル)が開通しました。
1929年(昭和4年)、頸城鉄道は浦川原・直江津間にバス運行を開始しました。その後、上越地区のバス会社を統合し、上越の足として発展しました。人々からはマルケー、あるいは青バスと呼んで親しまれるようになりました。バスの普及発展により軽便鉄道は1971年(昭和46年)5月1日限りで57年の幕を閉じました。
謙治は、1924年(大正13年)に衆議院議員に当選していましたが、1928年(昭和3年)に2度目の選挙で落選し、兄の辰治の忠告により、その後は政治から手を引きました。そしてバス経営に力を注いだのです。

明治最寄指導農場の開設

大竹家の水田は、旧大潟の東辺に沿ってありました。ここは水不足に悩む土地でした。謙治が大竹家の人となった最初の事業は、約105ヘクタールに及ぶ耕地整理でした。用水池(重箱池、今はない)を作り水不足を解消し、米の増収に成功しました。
1945年(昭和20年)、敗戦後の農村の行く末を憂い、大竹家の家屋・宅地・水田4ヘクタールを国に寄付し、明治最寄指導農場(頸城区)をつくりました。のち、明治地区農業改良普及所として県の管理となりましたが、1958年(昭和33年)に農林省北陸農事試験場明治圃場となりました。現在も独立行政法人北陸研究センター明治圃場として研究活動が進められています。

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