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塩崎貞佐久

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

安塚銀行の発展に尽くした

塩崎 貞佐久 (しおざき ていさく)

生年1852 没年1914

月影村長から県会議員になる

塩崎貞佐久は1852年(嘉永5年)8月27日、安塚村(現安塚区)の庄屋小熊平一郎の二男として生まれました。兄は県会議員、東頸城郡会議員、安塚村長として活躍した小熊善次郎です。
1876年(明治9年)3月、貞佐久は横住村(現浦川原区)の塩崎家に入婿しました。彼は農家生活の向上をめざして、水田の拡張に取り組み、横住村正明寺にある1ヘクタ―ルの荒地開墾をすすめ、最終的には横住川の谷底から山頂に至る10数ヘクタールの開田を行いました。
貞佐久は、1889年(明治22年)4月の町村制施行に際して誕生した月影村の初代村長になり10年間村政を担当しました。さらに、1901年(明治34年)4月には圧倒的多数の得票により東頸城郡代表の県会議員となりました。

安塚銀行の設立と発展

実業家としての貞佐久は、貧しい小作農の生活救済には農地開発が必要と考え、その事業資金を融通する銀行設立に取り組みました。
1897年(明治30年)、安塚銀行が資本金3万円で営業を開始し、貞佐久は専務取締役に就任しました。その後、貞佐久は頭取として銀行の実務に携わり堅実な経営に努めました。
その営業方針として、農地開発資金の貸付であること、貸付には農地を担保とすることが掲げられました。また、部下に対しては関係者からの接待を受けることを戒めました。
大正中期から昭和初期にかけて、安塚銀行は大島、浦川原、牧、高田、柿崎、松代、浦田口と支店を順調に増やし、太平洋戦争期の金融統制による第四銀行との合併まで発展を続けました。
温厚で決して高ぶらず、礼を尽くして人に接した貞佐久は、安塚銀行の基礎を築き1914年(大正3年)5月26日に亡くなりました。

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