新堀川開鑿由来記碑(1枚目)、新堀川暗渠排砂揚水機場(2枚目)
「新堀川開鑿由来記碑」は、潟守新田の神明宮境内に建立され、往古の大潟新田の開発の努力と苦労を後世に伝えています。碑文には寛文元年(1661年)の大潟新田の開発着手から、湛水被害克服のための取組の過程が書かれています。
「新堀川暗渠排砂揚水機場」は大潟新田の悪水を日本海へ放流する際に堆積する砂を取り除くために設置されました。
新堀川は自然放流だったため、強風で日本海が荒れる度に河口が砂などで塞がれ、田んぼが浸水したり、海水が逆流したりしており、近隣の住民の手によって、溜まった砂を取り除いていました。
昭和26年に「二重木管を河口に埋める」暗渠実験工事を施行し、昭和30年に河口暗渠排水工事が「鉄筋コンクリート製暗渠三連潜函工法」により起工、昭和31年5月に完成し、昭和50年には改良工事が施行され、現在の揚水機場が完成しました。
さらに、昭和53年に「水門管理橋」と「潮止め水門」が新設され、新堀川の開鑿に着手以来140年余を経て、湿地帯での耕作の苦しみや塩害の苦しみから逃れることができました。
ボランティア団体「だいばま会」は、これら歴史を後世に伝えるため、草刈りなどによる管理や、看板設置、地域住民への説明などの取り組みを行っています。
ボランティア団体「だいばま会」
大潟、頸城、吉川を含む広大な「大潟耕地」は、その昔は大湿地帯で不毛の地とされていました。先人は艱難苦楽、紆余曲折80年の時を経て、新堀川を開削し、一台潅漑事業を成し遂げました。
その後、近代にいたって、暗渠潜函工法という先進技術によって、「暗渠排砂揚水機場」を設け、絶え間なく日本海に流れ続ける新堀川となり、度重なる耕地整理によって、今では、稲穂がたわわに実る美田と化しました。
現地を訪れ、新堀川の開削にかけた、先人の思いを多くの人に知っていただきたいと思っています。
「上越市「地域の宝」を認定しました」をご覧ください。