焼山城跡本丸にある石碑(1枚目)、本丸からの風景(2枚目)
謙信公根越三城将供養堂(3枚目)、宮島館跡源姓宮島氏略譜碑(4枚目)
焼山城は、信濃方面へと至る関田街道を監視するための重要な城であったと考えられます。
城主であったといわれている宮島若狭守吉房は上杉謙信・景勝に仕えました。景勝の移封にともない、宮島氏も会津・米沢へと移り住みましたが、家臣の丸山氏は宮島の地に戻り、宮島氏先祖の墓を守り続けました。
天保十二(1841)年、宮島氏子孫の貞剛が宮島の地を訪れて丸山氏子孫の八右衛門に会い、宮島・丸山の両氏は約200年ぶりに「再会」を果たしました。これを機に丸山八右衛門が建立した石碑などにより、当地と宮島氏の関係が現在に伝わっています。
宮島館跡源姓宮島氏略譜碑
もとは宮島氏の館であったとされる場所で、宮島氏が移ったのちは丸山氏が居住しました。石碑は焼山城本丸の石碑と同じく丸山八右衛門による建立です。また、略譜によると宮島氏は、源義家の十一代子孫の従五位下修理亮貞家が、居住していた土地の名前である宮島を氏名としたことに始まるとのことです。
焼山城狼煙を上げる会
謙信公祭の狼煙上げは素晴らしい眺望の場所で行っています。城址関連施設を見学しながら是非狼煙上げにご参加ください。各山城をつなぐサミットとかツアーができることを願っています。
「上越市「地域の宝」を認定しました。」をご覧ください。