高田城下図 元文2年(1737年)に描かれた城下町の様子(上越市立高田図書館)
高田は、慶長19年(1614年)徳川家康の六男松平忠輝によって築かれた高田城の城下町です。
高田の城下町は、地理的・経済的条件などを考え計画的に造られました。
城下町を発展させるために、街道が城下を巡るように整備し、その街道に沿って、交通・運輸にかかわる町や、商業・流通にかかわる町などを配置しました。
さらに、専門的技術をもつ職人たちの町も配置するなどして、各町が城下都市のそれぞれの役割を持てるよう成立させました。
高田城の周りには武家町が造られました。現在使われている東城・西城・南城・北城の町名は城からの方角を示し、大手町や大町の一部とあわせ、武家が住んでいた地域でした。
一方、町人町は、現在の南本町・本町・北本町・東本町・仲町・大町の各通りに整然と造られました。城下町高田は、およそ40の「個別町」から構成されていました。
また、西側には寺院を集めて寺町を形成するとともに、街道の出入口付近にも寺院を配置しました。
間口が狭く、奥行きの長い家の造りを「町家造り」といい、狭い土地に多くの町民が住むためと間口の幅で税が決まったことから造られるようになりました。雁木から戸を開けて家に入ると約1メートル幅の土間が奥まで一直線に通り、その片側にミセ、チャノマ、ザシキ(仏間)、中庭、蔵と続き、台所、風呂、便所は土間の奥の中庭に面して並んでいます。チャノマは吹抜けで、その間に階段と渡り廊下があり、オモテニカイとウラニカイに分けられます。
両隣の家とは壁一つで接しているため、明り採りのために吹抜けに天窓が取り付けられています。
高田には、現在でも多くの町家造りの建物が残っており、最近では、町家造りの建物をリノベーションしてオフィスや喫茶店、民泊施設など、新しい姿に生まれ変わっている町家もあります。
(引用:町家読本 高田の雁木町家のはなし より)
江戸時代、「この下に高田あり」と高札が立てられたほどの豪雪地帯である高田では、冬期間でも人々の往来ができるよう、家の前に張り出した庇である「雁木」が造られました。雁木ができたのは、城下町が整った松平光長時代以降と考えられています。雁木は、城下町の街道沿いなどの町人町に並び、上越市には現在でも日本一の長さを誇る雁木通りが残っています。
雁木は母屋の一部であり、雁木の下は私有地なので、雁木の庇の高さや雁木の下の舗装も一軒一軒異なります。雁木は厳しい雪国の環境の中で作られた互助の精神の象徴である伝統的な建造物と言えるでしょう。
上越市の高田地区に現存する雁木の総延長は、約12kmあり、日本一となっています。
城下町高田には、歴史や文化が漂う個性豊かな町家や雪国の伝統的な建築物である雁木が現存しています。
高田の町家や雁木巡りの参考となる情報は、城下町高田の町家を巡る「越後高田町家三昧」をご覧ください。
まち歩きには城下町高田まち歩きガイドブックが便利です。
詳しくは城下町高田まち歩きガイドブックをご覧ください。