善兵衛学習で栽培する小学校の葡萄棚(1枚目)、マスカット・ベーリーAの収穫作業(2枚目)
岩の原葡萄園からの眺め(3枚目)、壮年期の川上善兵衛(4枚目)
川上善兵衛は、明治元年(1868年)3月、北方の地主の長男として生まれました。
8歳で家督を継いで6代目善兵衛を襲名し、幼少期は大豆の森本家や名立区杉野瀬の竹田家に預けられるなど、川上家の跡取りとして厳しい教育を受けました。14歳で川上家に戻った後、高田の儒学者、木村容斎の塾に学び、一時期慶応義塾大学にも通っており、また、英語・フランス語は、独学で習得しました。
善兵衛は満足な収穫が得られない農民の困窮を救うのは地主の責務として殖産興業に励みました。
様々な果樹を試作した結果、荒れ地でも栽培でき、加工特性に優れた葡萄に辿り着きました。また、当時の明治新政府が近代化促進のためにワイン造りを奨励しており、善兵衛も郷土に新しい農産を興そうとワイン造りを学び、自身の庭園を潰し、葡萄栽培の畑を作り、「岩の原葡萄園」と名付けました。
しかし、当時のワインは栄養・保険的な意味合いが強く、また、輸入ワインも安価で入ってきて経営的には日露戦争以降かげりがではじめていました。
そこで、善兵衛はわが国の気候風土に適し、しかも良質なワインの原料となる新しい葡萄の生産に乗り出しました。品種改良に取り組み、今も栽培されている川上新品種を生み出し、「日本ワイン葡萄の父」となりました。
高士村村長を4度務め、殖産の振興をはじめ、教育を村是とした村づくり、パリを模した村中心地への放射状の道路整備などのまちづくりも善兵衛の功績です。
高士地区では村づくりに一生を捧げた善兵衛を、「善兵衛さん」と愛着を持って呼んでおり、「善兵衛さん」の遺徳を地域住民の宝として、葡萄栽培、地元高士小学校での善兵衛学習、善兵衛Tシャツの作成と着用など、様々な取り組みを継続しています。
高士地区振興協議会
善兵衛が夢見た理想郷高士です。
川上善兵衛と言えば「日本ワイン葡萄の父」、明治の困窮する農村をヨーロッパ思想の合理主義的側面から殖産振興がブドウに辿り着いた。せいびされた中心部へ放射線状の道路は車社会にマッチし、葡萄園、ワイン工場はさかんとなり、また、善兵衛の親交者から寄贈された樹木が、小学校のお手植えの松を始めチュウリップの木・無患子(むくろじ)・鈴懸(すずかけ)・コルクの木等が点在している里です。
「上越市「地域の宝」を認定しました」をご覧ください。