この像は、安養寺を開いた覚善(かくぜん)の持仏(じぶつ)として伝来しました。
承元元年(1207年)、親鸞が越後国府に流刑となったとき、覚善はその世話をするとともに、親鸞へ帰依(きえ)したと伝えられています。
像高18センチで、頭部と体部を銅で別々に鋳造(ちゅうぞう)して、首のところでつないで造られています。像の表面は鍍金(ときん)で仕上げられていましたが、火災に遭ったために顔と胸元、蓮華座の一部のほかは、失われてしまいました。また、両手は手首より先が失われており、印相(いんぞう)は不明です。
衣文(えもん)の表現などから、善光寺式阿弥陀三尊の中尊(ちゅうそん)と考えられます。善光寺式阿弥陀三尊とは、鎌倉時代に特に流行した、長野県の善光寺の本尊を模刻したもので、中尊と左右の脇侍を一枚の光背に配した一光三尊形式であらわされたものです。本尊もこうした遺例の一つと考えられますが、後世に脇侍・光背は失われ、中尊のみが伝来したものとものと思われます。
本像の制作年代は明らかにされていませんが、鋳造方法や像容から鎌倉時代と推定されています。