顕法寺城は、旧吉川町のほぼ中央に位置する、標高182メートルの山城で、南北朝時代の文和4年(1355年)の史料に「顕法寺城」の名称が初めて登場します。また、戦国時代には、春日山城の支城群の一つとして機能していたと考えられています。頂上に主郭があり、その周囲に土塁や空堀が築かれ、防備を固めています。主郭の西側は断崖で、北側、南側、西側には空堀がめぐらされ、敵の侵入を厳重に防ぐ構造になっています。
顕法寺城は、上杉謙信の家督相続を争った御館の乱に際し、敗者の景虎側についた町田城(吉川区)とともに廃城になったと考えられています。
昭和56年5月13日に旧吉川町の文化財に、平成19年6月1日に上越市の文化財に指定されています。