三重塔全景(1枚目)、垂木の様子
一・二層(下側)は平行だが、三層(上側)は放射状に(2枚目)
三重塔の心柱(3枚目)、頭貫上部に施されている十二支の彫刻(4枚目)
高さ25.85メートルのこの三重塔は、上越地方に残る唯一の塔で、昭和63年の火災でも焼失から免れました。
塔とは、サンスクリッド語のストゥーパ(仏塔の意)から転じた語で、釈迦の遺骨(舎利:しゃり)を安置する信仰から始まり、インドから中国に伝わりました。中国では楼閣建築となり、その後、日本へ伝わり現在みられるような建築様式になりました。
国分寺の三重塔は、安政3年(1856年)に鋸始め(着工)されたという記録が残っています。全国に114基ある三重塔の中で、最も新しく建てられたものといわれています。
慶応元年(1865年)に上棟(じょうとう)され整備が続けられましたが、高欄(こうらん:手すり)や連子窓(れんじまど:細長い木材を縦や横にはめ込んだ窓)などは未完成のままになっています。
塔内部の中央を通る心柱(しんばしら)に注目すると、鎖で釣られ、礎石に固定されていません。この構法は、文政元年(1818年)に上棟した日光東照宮(栃木県)の五重塔など江戸時代後期に現れるものです。
塔を見上げると、一・二層の垂木がすべて直角でそれぞれ平行(平行垂木)なのに対し、三層は中央から放射状(扇垂木)に取り付けられています。また、初重の頭貫(かしらぬき)上部には、十二支の彫刻が施されています。さらに、相輪(そうりん)と呼ばれる塔の先端部は、普通金銅製なのに比べ、この塔は陶製のものが付いています。これは、当時この辺りで盛んだった五智焼を利用したものと考えられています。
この塔は、県内では乙宝寺(胎内市)の三重塔とともに、越後の建築史を知る上で貴重な遺品です。