イベントでの披露の様子。歌い手、音頭取り(1枚目)と踊り手(2枚目)
八社五社の踊りは、延喜年間(901~923年)醍醐天皇の命によって編集された「延喜式神名帳」に記載された「頸城十三社」の社殿建立の際の「地固め歌」として歌いだされたものだと伝えられています。
頸城十三社とは、関川の川西にある八社、川東にある五社のことで、八社とは居多神社(上越市五智)、阿比多神社(上越市長浜)、江野神社(名立区大町)、天津神社(糸魚川市一の宮)、奴奈川神社(糸魚川市一宮の宮)、佐多神社(糸魚川市宮平)、青海神社(糸魚川市青海)、斐太神社(妙高市宮内)の出雲系八社で五社とは菅原神社(清里区菅原)、物部神社(清里区南田中)、水島磯部神社(清里区梨平)、五十君神社(三和区所田中)、圓田神社(柿崎区岩手)の大和系の五社のことです。
八社五社の踊りは、上越地方を中心に頸城地方全域と魚沼地方で広く唄われ、踊り続けられてきており、大潟区に伝わるものは菅原神社(清里区)から伝わったものではないかといわれています。
踊りは二重三重の輪を作り、「ヨンヤーナー」の囃子とともに音頭取りは櫓の上で唄を歌い、太鼓打ちは櫓の下で拍子をとり踊られます。
大潟町八社五社保存会によって、神社の祭礼、かっぱ祭り(6月)、秋祭りで踊りが披露され、保存、継承されています。
平成6年に大潟町文化財に、平成19年に上越市文化財に指定されています。
大潟町八社五社保存会
平安時代の頃、上越地方の各地での神社建立の基礎土台を固める時に、地元や近隣の村人たちが、大勢集まり歌い、踊りながら地盤を固める作業からこの八社五社踊りが誕生したと伝えられ、約千年以上の長期にわたり継続されてきました。当時は、娯楽などがほとんどなく、祭りや会合等が開かれると、大勢の村人が集まり、2階建ての櫓の階下では太鼓をたたき、2階では音頭取りが唄い、2重~4重の輪踊りが盛大に行われていました。
戦後、日本が復興し、他の娯楽等が増加してくると、伝統ある八社五社踊りがだんだんと踊られなくなってきましたが、これを守るために保存会を設立し、現在も活動を続けています。八社五社を未来へ残すために、一緒に活動する人を大募集しています。
上越市「地域の宝」をご覧ください。