ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 小林古径記念美術館 > 小林古径 人と作品

小林古径 人と作品

印刷用ページを表示する 掲載日:2020年8月25日更新

小林古径 人と作品

画室での古径の肖像写真です

 上越市出身の日本画家・小林古径は、1883年(明治16年)、新潟県中頚城郡高田土橋町(現・新潟県上越市大町)に生まれました。本名を茂といいます。父・株(みき)は元高田藩士で、明治維新後は新潟県の役人の仕事をしていました。茂が生まれて3年後、父の転勤で一家は住み慣れた高田を離れ、新潟市へと転居し、その後も県内を転々としました。家族は父・母・兄・妹・祖母の6人家族でしたが、悲しいことに茂は少年時代に次々と家族を失い、13歳の時には妹と二人きりになってしまいます。幼くして親を亡くし妹を養う一方で、12歳の頃から日本画を学んでいた茂は、絵の道に進みたいと強く願うようになりました。

 1899年(明治32年)、16歳の時に茂は上京し、日本画家・梶田半古の画塾に入門します。半古から「古径」という雅号をもらい、「写生」と「画品」(画の品格)について教えられた古径は、画塾の中で頭角をあらわし、展覧会でも実力を認められていくようになります。1914年(大正3年)、31歳の時には第1回再興日本美術院展で入選し、同人に推挙されます。以後は日本美術院展が主な作品発表の場となりました。1922年(大正11年)には日本美術院留学生として1年にわたってヨーロッパに滞在し、西洋美術を研究しました。

 1944年(昭和19年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)の教授となり、後進を育てることにも力を注ぐようになりました。1951年(昭和25年)、67歳の時には長年の功績が認められて文化勲章を受章しました。1957年(昭和32年)、74歳で死去するまで、美しい線描と澄んだ色彩で数々の作品を制作しました。

 

小林古径 年譜

1883年(明治16年)
0歳 2月11日、小林株・ユウの次男として新潟県中頸城郡高田土橋町拾七番戸(現在の上越市大町一丁目)に生まれる。本名、茂。小林家は代々高田藩士で、父である株は新潟県内の逓信官吏を歴任した。

1887年(明治20年)
4歳 9月1日、母ユウ死去。

1894年(明治27年)
11歳 山田於莵三郎に日本画の手ほどきを受ける。

1895年(明治28年)
12歳 青木香葩に学び、「秋香」の号をもらう。12月、兄弘死去。

1896年(明治29年)
13歳 1月、父株死去。

1899年(明治32年)
16歳 実業之日本社の石井勇の紹介で上京、梶田半古塾に入門し、「古径」の画号をもらう。本郷弓町の清水宜輝方に寄宿する。

1900年(明治33年)
17歳 第8回共進会「竹生島」出品(三等褒状)、第9回共進会「一の谷」出品(一等褒状)

1901年(明治34年)
18歳 第10回共進会「春霞」出品(二等褒状)、第11回共進会「敦盛」出品(一等褒状)

1902年(明治35年)
19歳 第12回共進会「女三の宮」出品(一等褒状)、第13回共進会「妙音」出品(二等褒状)

1906年(明治39年)
23歳 この頃、安田靫彦と知り合う。

1907年(明治40年)
24歳 巽画会会員となる。師半古に推されて塾頭となる。

1910年(明治43年)
27歳 安田靫彦、今村紫紅に誘われて紅児会に入会。

1912年(明治45年)(大正元年)
29歳 三好マスと結婚。第17回紅児会展出品の「伊蘇普物語」を岡倉天心がみて感動し、端渓の硯を贈って画壇への首途を祝う。

1913年(大正2年)
30歳 8月、紅児会解散。

1914年(大正3年)
31歳 日本美術院同人に推挙される。

1915年(大正4年)
32歳 本郷から大森新井宿に転居する。

1917年(大正6年)
34歳 4月、梶田半古死去。

1918年(大正7年)
35歳 日本美術院評議員となる。

1920年(大正9年)
37歳 馬込の農家住宅を購入。大森から馬込に通って画室として使うようになる。

1922年(大正11年)
39歳 西洋美術を研究するため、日本美術院留学生として前田青邨とともに渡欧。

1923年(大正12年)
40歳 前田青邨とともに大英博物館で伝顧がい之筆「女子箴図」の模写に従事する。8月、帰国する。

1934年(昭和9年)
51歳 馬込の画室に隣接して住居を新築する。設計者は吉田五十八、棟梁は岡村仁三。

1935年(昭和10年)
52歳 帝国美術院会員となる。

1936年(昭和11年)
53歳 大森の画室を改修する。設計者は吉田五十八。

1939年(昭和14年)
56歳 第2次世界大戦始まる。

1940年(昭和15年)
57歳 紀元2600年奉祝展委員となる。

1941年(昭和16年)
58歳 6月、日満美術展のため渡満。帰途、北京に寄り、10月帰国する。

1944年(昭和19年)
61歳 6月、東京美術学校教授に就任する。7月、帝室技芸員となる。この年、戦争のため公募展などの開催を禁止する美術展覧会取扱要項が発表され、院展も中止される。

1945年(昭和20年)
62歳 3月、山梨県に疎開する。8月15日、終戦。10月、馬込の自宅に戻る。

1949年(昭和24年)
66歳 東京藝術大学教授となる。

1950年(昭和25年)
67歳 11月3日、文化勲章を受章する。

1951年(昭和26年)
68歳 文化功労者となる。10月、東京藝術大学教授を辞任する。

1952年(昭和27年)
69歳 9月、第37回院展に「菖蒲」を出品する。院展への出品はこれが最後となる。

1955年(昭和30年)
72歳 6月下旬より9月初旬まで神奈川県湯河原の天野屋にて静養する。

1956年(昭和31年)
73歳 3月、慶応病院に入院する。

1957年(昭和32年)
74歳 4月3日、死去。従三位勲二等旭日重光章を受章。法名「善光院茂誉古径居士」

代表作品

「髪」

作品「髪」(画像) (重要文化財) 173.5×108センチ 昭和6(1931)年 第18回再興院展 永青文庫蔵

 切手になったことでも有名なこの「髪」は昭和6年の作品で、前年に発表された「清姫」とともに古径芸術の頂点ともいうべき代表的名作である。
 湯上りの洗い髪を梳くという当時の一般家庭でよく見られた場面をテーマにしている。この作品で印象的なのは長い黒髪である。妹と思われるおかっぱ髪の女性の左手に抱えられた髪は豊かな量感と見事な質感で捉えられており、古径が最も注意を注いで描いた部分と思われる。そしてこの長い髪が媒介となり、二人の女性が画面の中で巧みに構成されている。
強靭で簡潔な線、清涼感に満ちた二人の着物の彩色と配色、そしてさりげなくわずかにちりばめられた帯や唇などの赤。古径の研ぎ澄まされた近代的造形感覚が伝統を踏まえた形でこの作品に凝縮されている。
 また、この画面全体からは姉妹間の情愛がそこはかとなく漂い、ふくよかながらも端正な二人の顔には俗人を超えた気品を感じることができる。

「異端」

作品「異端」(画像)  134×240センチ 大正3(1914)年 第1回再興院展 東京国立博物館蔵

 この作品は3人の女性が蓮池の前で絵踏する場面を描いたものである。古径は明治44年には「踏絵」(第16回紅児会展)を、また明治45年には「極楽井」(第6回文展)、大正2年には「耶蘇降誕」(やそこうたん)(第19回紅児会展)を発表し、この頃「南蛮趣味」を積極的に作品に取り込んでいることがうかがえよう。また、女性の服装には近世風俗からの影響がみられる。当館所蔵の初期素描作品群にも「彦根屏風」や「松浦屏風」などの模写があり、近世風俗を習得しようとした痕跡がみられる。
中間色の淡い色調の中で、蓮花によって想起される仏教と絵踏に例えられるキリスト教が画面の中で互いに交差し、東洋と西洋の美的精神や宗教観をこの作品で表現しているものと思われる。
 この作品は古径が31歳の時に制作されたもので、第1回再興院展に出品された。古径はその力量が認められて会期中に日本美術院同人に推挙された。

「阿弥陀堂」

作品「阿弥陀堂」(画像)  217×90.8センチ 大正4(1915)年 第2回再興院展 東京国立博物館蔵

 この作品は大正4年の第2回再興院展に出品された作品である。この年に古径は大森新井宿へ転居しているが、この出来事も古径の画風に変化を与えたと考えられている。 作品の発表当時に田中滄浪子が朝日新聞で「昔は建築物といえば、所謂界線画法を以って描かれたもので、山水人物の中に介在するよりほかに殆ど意味のないものであった。それを古徑は全く新しい手法を以て取扱った」と評したように、人物などの生物を描かず建築物のみを主題に扱ったことは斬新に映り、古径は「阿弥陀堂」により画業における地位を築いたと評されることが多い。 早朝の薄明に立つ阿弥陀堂が描かれているが、作品の創作動機については研究の余地がある。修行者が阿弥陀如来の名を唱えながら極楽浄土への往生を願う「常行三昧」堂が阿弥陀堂と呼ばれるが、一般的に知られている「鳳凰堂」と題をつけずに阿弥陀堂としたところにも、「極楽井」「住吉詣」「異端」と発表してきた古径の生死観(宗教性)がうかがえるだろう。

「罌粟」

作品「罌粟」(画像) 165×99.6センチ 大正10(1921)年 第8回再興院展 東京国立博物館蔵

 古径38歳の時の作品。
 この作品を制作する前年の大正9年に東京・馬込の画室が完成し、完成後の画室で描いた初めての院展への出品作がこの「罌粟」(けし)である。
 古径はこの頃、「いでゆ」(大正7年)、「麦」(大正8年)に代表されるように写実的な作品を多く制作しており、この作品もこの「写実主義的」傾向の作風を色濃く残している。
この作品は画室の庭で栽培していた罌粟を描いたもので、対象を的確に捉え、徹底的に写実をおこなっている。罌粟の持つ形状、色彩、表情などを実によく描きこみ、「くまどり」や「たらしこみ」など塗り方のあらゆる技法を駆使して、この作品を完成させた。
 日本美術院の画家を支えた一人である横浜の豪商・原三渓(富太郎)は、当時この作品をみて「茎を折れば青くさい草の汁が匂うようだ」と言わしめたことは有名な話である。