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荒井賢太郎

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

新潟県出身の最初の大臣

荒井 賢太郎(あらい けんたろう)

生年1863 没年1938

高田藩士の家に生まれる

荒井賢太郎は、1863年(文久3年)10月7日、高田城下の市の橋(現上越市西城町三丁目)に高田藩士荒井直静の長男として生まれました。賢太郎は、藩校修道館・新潟学校第四分校を経て、新潟学校師範学科に学び、師範卒業後は1880年(明治13年)から 1884年(明治17年)まで柏崎小学校に勤務し教鞭をとりました。

東京帝国大学で法学を学ぶ

1884年(明治17年)、賢太郎は司法官を目指して上京し、司法省法律学校に合格しました。しかし、同校は一年で廃校となったため、改めて第一高等学校、東京帝国大学法科大学に学びました。後に総理大臣となった若槻礼次郎とは大学の同期で、親しく交友を深めました。

大蔵省に勤める

1892年(明治25年)、東京帝国大学法科大学卒業後は大蔵省に勤務し、奈良県庁収税課長への出向を経て、大蔵省主計官、参事官、主計局長などを歴任しました。その後は 1905年(明治38年)韓国統監府参与官に任ぜられ、1910年(明治43年)朝鮮総督府発足後も財政担当の度支部長官(たくしぶちょうかん、大蔵大臣のような役職)として、朝鮮銀行、朝鮮殖産銀行を興すなど金融機関の創立整備を行いました。 1916年(大正5年)に帰国した賢太郎は、翌年に貴族院議員に選ばれています。

農商務大臣に就任

1922年(大正11年)6月、賢太郎は加藤友三郎内閣の農商務大臣になりました。新潟県出身の最初の大臣として、第一次世界大戦後の不景気打開に取り組みました。
翌年8月、加藤の病死による内閣総辞職で任を解かれましたが、その後も枢密顧問官、枢密院副議長の要職に就きました。 1938年(昭和13年)1月、賢太郎は枢密院副議長の現職のまま74歳で亡くなりました。
1983年(昭和58年)、顕彰表示板が高田文化協会によって、生家があった西城町三丁目に設置されました。

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