江戸時代後期の上越地方の教育は、かなり高いレベルにあったと考えてよいでしょう。高田藩による藩校の設立は、1866年(慶応2年)を待たなければなりませんでしたが、それは、それ以前の武士身分の子弟教育のあり方が地域社会のなかで充分機能していたからに違いありません。
また、大商人や地主層の子弟たちの教育も、その地域に発展した私塾によって充分に高いレベルを維持していました。数ある私塾からいくつかを紹介するとすれば、まず倉石侗窩(典太)の文武済美堂(ぶんぶせいみどう)をあげなければなりません。この塾からは、前島密や室孝次郎をはじめ多くの人材が輩出されました。そのほかにも高田藩が招いた東條琴台(きんだい)の私塾や戊辰戦争によって高田藩にお預けになり、そのままこの地で私塾を開いた南摩羽峯(なんまうほう)の正心(しょうしん)学舎、さらには直江津の小林百哺(ひゃっぽ)の牙籌堂(げちゅうどう)など、枚挙にいとまがありません。
こうした江戸末期の学問熱は、藩士や富裕な商人・地主層によって受け入れられていきました。そしてその熱はそのまま、近代上越が政治や実業の世界に無尽蔵とすら言える人材を送り出していく状況につながっていくのです。明治初頭から県内を牽引するように上越に現れた自由民権運動のうねりは、こうした人材によって支えられていました。
鈴木昌司らの先駆者、そして室孝次郎・笠原克太郎・さらにそれに続いた高橋文質・本山健治・上田良平など、富裕な商人や地主階級出身者が自由民権運動を経て政治家への道を切り開いていきました。彼らの多くは、自家の財産を惜しみなく投げ打ちながらも、地域社会のために貢献することを自らに課した政治家でした。それは江戸時代以来「有徳(富裕)」の商人・地主層に課された道徳感に通じる感覚であり、当時の社会的なあり方に強い要請を受けた、近代に特徴的な政治家の姿勢であったと言うことができるでしょう。大瀧傳十郎・西山壽平治・丸山豊治郎・関根干城・横尾義智・竹田環・漆間與三郎・武田徳三郎らもこの類型に入れることができると思われます。
一方、自らの出自とはあまり関係なく、程度の差はあれ、やや地域と距離を置きながら活躍する政治家も存在します。荒井賢太郎・芳澤謙吉・前島密・川合直次・竹越與三郎、さらに石田善佐や増田義一らはこれにあたるように思います。彼らは資産家であるかないかに関わらず、自らの才覚によって、政治家・官僚として、学者として、あるいは実業家としても成功を収めていきます。しかし、いずれにせよこうした近代上越を綺羅(きら)、星(ぼし)のごとく彩る政治家たちが、子どものころから勉学の徒であったことに変わりはないようです。
そして明治時代の中期以降には、高田師範学校や高田中学校が多くの人材を輩出するようになりました。これからの将来も、多くの子どもたちが人々の幸せのため、そして日本だけにとどまらず大きく羽ばたいてもらうためにも、勉学の労を惜しまない社会であってほしい、またそういう子どもたちを育む地域社会であってほしいと願わずにはいられません。