明治のはじめ、最初に上越にやってきたのは石油ブームでした。その昔、「くそうず」とよばれてやっかいものだった石油は、にわかにゴールドラッシュならぬ「オイルラッシュ」を上越にもたらしました。清里・牧、名立、そして郷津などでは、たちまち石油削井櫓が立ち並び、富裕な地主層も、またその日暮しの抗夫も一攫千金の夢に沸き立ったのです。高田近郊には、石油精製所がいくつもできました。直江津や高田横町の歓楽街では、石油のにおいがする人が人気だったといいます。しかし、石油で財を築き、それを残すことは実際には難しかったようです。金子富作や西條太造、そして笠尾惣治らは石油で成功した数少ない人々の代表です。
石油の活況や日露戦争がもたらした好景気、そして第十三師団の高田入城などに下支えされながら、明治中期から大正期の諸産業は飛躍的に伸びていきました。地主層の資本は石油をはじめとする新しい産業に投入されていきました。
川上善兵衛は、ワインに魅せられてブドウ栽培に生涯を捧げます。また、有澤富太郎はバテンレースに注目して一時代を築きました。こうした産業や農業の振興のため、成資銀行や安塚銀行などの新しい銀行がつぎつぎに開かれていきます。富永孝太郎はやはり資金の融通を目的とした多くの産業組合の設立に貢献しています。大竹謙治は頸城鉄道やバスを走らせて、交通の面から産業振興を後押ししました。高橋達太は、港に夢を見て板倉から直江津へ進出しました。佐渡汽船を設立した古川長四郎は、旧態依然としていた直江津港の設備の近代化を志しましたが、その実現はずっと後になるのでした。
地主層がそれぞれの資本を活かして上越を舞台に活躍を続けた一方で、地主層の次男・三男などのなかには、活動の場を上越以外に求めた人もいました。中村十作や小林富次郎、そして小池仁郎はふるさとを離れて事業を興した人です。逆に、国友末蔵に代表されるように、他の地域から上越にやってきて活躍した人物も見逃すことはできません。また丸田治太郎のように地元と台湾との両方に地盤をおきながら活躍した事業家も見られます。陸川三次は、頸南地域でいち早くトラックを導入して運送業を開始し、トラック一台で時代を駆け抜けた人です。
大正期、次第に石油ブームは下火になりました。また、昭和に入って、金融恐慌や世界恐慌、そして第十三師団の廃止に上越の産業は大きな打撃を受けます。その後は戦時下統制の時代となり、大きく花開いた明治・大正の上越の産業も火が消えたように静かになっていくのでした。
しかし、直江津港を出入する船を眺め、大通りを往来するバスに乗り、バテンレースの繊細さに感心し、地元のワインに舌鼓を打つとき、たしかに彼等が蒔いた産業の種が、いまでもこの上越の地にしっかりと根付いていることを感じます。