ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

レルヒと上越

印刷用ページを表示する 掲載日:2023年12月20日更新

レルヒが上越に来た理由

 レルヒは、1911年(明治44年)1月5日から翌年の1月24日まで上越高田の陸軍第13師団に配属されました。約1年間、上越にいたことになります。その後は、北海道の旭川に配属されました。
 レルヒのほかにも、日本軍の視察のために世界各国の軍人が来日していましたが、大都市や外国との交流が盛んな日本東海岸を視察先に希望しました。なぜレルヒは、上越や旭川のような豪雪地帯に配属されたのでしょうか。
 その理由は、レルヒ自身の希望があったためです。スキーに特別な情熱をもっていたスキーヤーレルヒは、2組のスキーを持って上越にやってきました。日本の雪を体験したい、という気持ちがあったのでしょうか。

長岡外史とレルヒ(写真)
長岡外史とレルヒ

日本スキー発祥の立役者:レルヒと長岡外史

テオドール・エドラー・フォン・レルヒ(1869年~1945年)

 オーストリア・ハンガリー帝国の軍人で、軍事視察のために来日。
 オーストリア式スキーの創始者マティアス・ツダルスキーの弟子。
 上越に滞在中、スキー指導をおこなう。その指導は熱心で、親切・丁寧であったという。帰国後も上越の人々との交流は続いた。
 スキーだけでなく、スケート・フェンシング・乗馬も得意だった。
 登山も好み、米山・南葉山・妙高山にも登った。

長岡 外史(1856年~1933年)

 レルヒが来日した当時、高田に配置されていた陸軍第13師団の師団長。ヨーロッパを視察したときにスキーを知り、軍だけでなく、日本国民の冬のスポーツとしてスキーを導入することが大切だと考えていた。
 レルヒの母国語(ドイツ語)を話すことができる。
 スキー普及のほかに、日本の航空の発展にも力をそそぎ、民間航空の父といわれる。
 長いヒゲがトレードマーク。

レルヒが伝えたスキー術

 レルヒが伝えたスキーは、現在のように2本のストックを使いません。1本の杖を使う「リリエンフェルト式スキー術(オーストリア式スキー術=一本杖スキー)」でした。リリエンフェルト式スキー術は、レルヒのスキーの師匠であるマティアス・ツダルスキーがオーストリアのリリエンフェルト市で完成させたスキー術です。
 当時、世界のスキーはノルウェー式が主流でした。ノルウェー式は平らなところを歩くには最適でしたが、足をスキー板に固定する締具は簡単なものだったため、このスキーで山などの急な斜面を滑ることはできませんでした。
 そのため、ツダルスキーは急な斜面でも安全に滑ることができるリリエンフェルト式スキーを考案したのです。
高田(金谷山)におけるレルヒ少佐(写真・小熊和助氏撮影)
高田(金谷山)におけるレルヒ少佐(小熊和助氏撮影)

レルヒのスキーの師匠、マティアス・ツダルスキー(写真)
マティアス・ツダルスキー

レルヒが来た頃の上越・高田

 上越にスキーが伝えられた明治時代の終わりごろ、活気を失いかけていた高田の町は、陸軍第13師団が置かれたことでふたたび賑いをとりもどし、近代的な町へと生まれ変わろうとしていました。師団がやってくる前の1893年(明治26年)には、全国に先がけて信越線が全線開通し、1907年(明治40年)には高田・直江津・新井まで初めて電灯がともりました。
 師団がやってくると、様々な商店が高田に店を構えるようになりました。朝市が立つようになり、映画館や写真館がつくられ、洋風の建物も増えていきました。高田城址公園に桜の苗木が植えられたのも、このころのことです。
 師団による積極的な働きかけもあり、たちまちスキーは民間の人たちにも受け入れられていきました。レルヒが来たその冬のうちに、現在の全日本スキー連盟のもととなる高田スキー倶楽部が結成され、スキー板の生産がはじまり、スキー民謡などの歌謡曲やスキーせんべい・スキーあめ・スキーようかんなどのおみやげも品ぞろいしていきました。
 こうして、スキー産業は上越の一大産業となっていきました。

高田におかれた陸軍第13師団指令部(現在の上越教育大学附属中学校付近)(写真)
高田におかれた陸軍第13師団司令部(現在の上越教育大学附属中学校付近)

明治の終わりから大正時代にかけての新聞広告(イラスト) 
明治の終わりから大正時代にかけての新聞広告