近代上越の教育レベルの高さは、政治家・思想家のみならず、多くの学者や教育者を生み出し、そのなかの何人かは全国においてもトップレベルの識者に位置づけられることになります。たとえば、関野貞や坂口謹一郎といった人々は、その優れた学識やセンスによって、その学会のトップに上り詰めた人たちです。関野、坂口らの業績は、いまだにその学問分野において重要な地位を占めており、日本が世界に誇る研究者だと言えるでしょう。
また、文学・芸術の分野においては、小川未明と小林古径、そして小山作之助らを挙げることができるでしょう。未明は、「日本児童文学の父」と称され、古径は画道を追及して日本画壇の頂点に立つまでになります。彼らは、中央の学会・文壇・画壇等において、他の追随を許さない金字塔を打ち立て、多くの後学を育てたのです。同様に中央で活躍を見せた人物に高嶋米峰がいます。宗教家だった米峰は明治から大正期に「新仏教運動」を展開し、当時普及をはじめたラジオを使って全国に呼びかけ続けました。
一方で、この上越地方を舞台に活躍を見せる人たちがいます。未明と早稲田の同門である相馬御風、村松苦行林やその妹山田あきは、未明と強いつながりを持ちながら地方の文壇でも活躍を見せます。こうした文学的土壌はのちに芥川賞作家・小田嶽夫を育て、堀口大学を高田に招き寄せることになり、現在の杉みき子氏らの活躍につながっていると考えられるでしょう。また、坂口は疎開先であった頸城区鵜ノ木の楽縫庵において、文化的サロンを催し、ここには陶芸家・齋藤三郎ら戦後活躍する芸術家が集まっていました。医療の分野からは富永忠司と森成麟造、そして大森隆碩を取り上げています。森成麟造は、夏目漱石の主治医として知られますが、地元への貢献の意味では、上越郷土研究会の創立と「頸城文化」創刊を評価したいと思います。大森隆碩は上越に日本で3番目の盲学校を開いた人物です。
教育の分野でも多くの人材が輩出されていますが、ここでは増村朴斎・本山久平・池田和夫を挙げました。朴斎は有恒学舎の創立者であり、池田和夫は、戦前において先駆的な作文指導を行ったことで知られます。このほか、江崎長三郎や篠田宗吉は伝統的な建築技術を伝えた名工。池永隆勝は宗教家であるとともに全国でもいち早く地域で有線放送を行った人物として知られています。山水画家である東洋越陳人は、その画才と人柄がいまでも地域の人たちの語り草となっており、愛され続けていることが知られます。
このようにこの分野の人々を概観すると、現在においても、私たちは多くの薫陶を彼らから受けているように思います。きっと、より普遍的な「ひととしての生き方」や「人間の存在」のようなものを彼らが教えているからなのでしょうか。