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高田城の歴史

印刷用ページを表示する 掲載日:2023年6月15日更新

松平忠輝の入封

 慶長3年(1598年)春日山城主・上杉景勝が会津に転封となり、替わって越前北ノ庄(福井市)城主・堀秀治が入封しました。堀氏によって福島城が築城されましたが、同15年(1610年)に御家取り潰しとなり、松平忠輝が信濃国川中島から入封しました。忠輝は徳川家康の六男であり、徳川と豊臣の抗争が激化する中で、豊臣家の重臣・前田利常を牽制するため、交通の要衝である福島城に置かれたものと推定されています。

忠輝、菩提ヶ原に高田城を造る

 忠輝は慶長19年(1614年)に天下普請(幕府の命による工事)として高田城築城に着手しました。普請には上杉景勝(出羽米沢城主)、前田利常(加賀金沢城主)など13の大名が任命され、総裁には忠輝の舅・伊達政宗が就任しました。

 築城された場所は、高田平野の中央よりやや西に寄った地点で、当時は菩提ヶ原と呼ばれていました。地形を見ると、自然堤防の周りに蛇行していた河川を利用して外堀を形成するなど、関川の自然堤防を巧みに利用していることがよく分かります。

築城期間は4か月

 高田城の普請で特筆すべきことは、竣工までの期間の短さです。所説はありますが、慶長19年3月15日に着手し、7月上旬には一応の完成を見ています。外堀を含めると60ヘクタールを優に超える城郭が、約4か月で出来上がった背景には、大坂の陣を控えて、豊臣の重臣を牽制し江戸の背後を固めたものといわれています。

高田城二つの特徴

 平城の高田城には、二つの特徴があります。一つは天守閣が建築されなかったこと、二つ目は石垣が積まれず、全体に土塁をめぐらしていることです。その理由は、豊臣家との決戦を間近に控え、完成を急ぐ必要があったからだと考えられています。

 築城当初の櫓は二重の櫓でしたが、寛文地震のあと、三重の櫓に生まれ変わりました。また近代には二の丸・三の丸の土塁がすべて撤去されてしまいましたが、本丸の土塁は築城当時の威容を400年が経過する現代に伝えて、高田城の見どころの一つとなっています。

城下町の様相

 高田城下は、北と南から北国街道(奥州道・信濃道)を、そして西から北陸道(加賀街道)を引きこんで、碁盤目のように整然と町割りされています。城を最も東に配置して関川で囲い、城の西に接して家臣団の屋敷を構え、町人はその西にほぼ南北に走る北国街道に沿って町を形成しています。最も西には寺を2列に並べて寺町を形成しましたが、この寺町は現在でも60あまりの寺が現存し、日本でも有数の寺町といわれています。

関連資料

 高田城主一覧

 高田藩年表

 榊原家史料