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有澤富太郎

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

バテンレースで時代を築いた

有澤 富太郎 (ありさわ とみたろう)

生年1875 没年1944

バテンレースの最盛期を築く

有澤富太郎は、1875年(明治8年)12月24日、高田善光寺町(現東本町1)で生まれました。東京共立学校を経て、父親の仕事を継ぎ織物卸業をしていました。
1898年(明治31年)ごろから、高田ではバテンレースの生産が始まりました。バテンレースに強い関心を持った富太郎は有志とともに、1910年(明治43年)3月に東洋ブレード合資会社を設立、翌年には社長に就任します。ブレードとはバテンレースの縁取りに使う細幅の織物のことです。このころの高田は、陸軍第十三師団の入城や頸城油田の活況に沸き、電気や電話の敷設が進み、工場が立ち並ぶなど、高田が大きく市勢を発展させる時期にあたりました。こうした好景気に乗って、富太郎の東洋ブレードは業績を大きく伸ばしていき、高田のバテンレース も大きな全国シェアを誇る特産品となっていきました。
1917年(大正6年)の高田市の統計によれば、東洋ブレードは資本金50万円で市内3位となり、5か所の工場と織機800台・従業員600名を数えるまでに発展しました。1919年(大正8年)、富太郎は、地域のブレード工場やバテン工場を統合し、社名を「日本ブレード株式会社」に変更して、「高田のバテン」も最盛期を迎えました。

バテンレースの斜陽と有沢製作所の設立

ところが、第一次世界大戦や、1929年(昭和4年)の世界恐慌によって、次第にバテンレースの隆盛にもかげりが見えてきます。経営不振からの立ち直りは難しく、1930年(昭和5年)5月には、日本ブレードの全工場を富太郎が買い取り個人経営の「有沢製作所」として出直すことになります。富太郎は自ら営業に出向くなどの苦労の末、電気絶縁テープやファスナーテープなどの製造に活路を見出していきました。
晩年の富太郎は上越華道会長を務めたり、高田商工会の初代会頭や市参事会員などの要職も務めたりしましたが、1944年(昭和19年)69歳で波乱の人生を閉じました。
富太郎が育てたバテンレースは今も高田の名産であり、また有沢製作所は上越に根を下ろした企業として、現在もITの分野に活躍の場を広げ、経営を続けています。

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