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飯田茂勝

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

保倉川電気株式会社を設立した

飯田 茂勝 (いいだ しげかつ)

生年1876 没年1944

菖蒲村の本山家に生まれる

飯田茂勝は菖蒲村(現大島区菖蒲)の素封家であり、1876年(明治9年)に衆議院議員本山健治の次男として生まれました。
幼少期、同じ菖蒲村の親戚であり、自由民権運動家で知られる飯田茂三郎が急死したため、茂勝は健治の意志により飯田家を継ぎました。茂勝は慶応義塾で学び、帰郷後には郡会議員として活躍しました。明治期の後半、一時期健康を害しましたが、回復後は東頸城郡の発電事業に取り組みました。

保倉川に発電所を造る

保倉川の水を利用して発電所を造る計画案は茂勝のほかに中野の武田徳三郎、上猪子田の永井清一郎も持っていました。最終的には茂勝の計画案が採用になり、水量は少ないが落差に恵まれた菖蒲に発電所を建設することが決まりました。
1920年(大正9年)、保倉川電気株式会社は資本金9万円で設立され、茂勝は初代社長に就任しました。同年には菖蒲発電所が完成、翌年1月から村内に送電が開始されました。送電範囲は1921年(大正10年)大島村、1922年保倉村、旭村、小黒村、安塚村、1923年菱里村、下保倉村、沖見村の一部、吉川村の一部、隣接する柏崎町、刈羽郡の一部など各地域に拡大しました。しかし、営業範囲が広がると夏の渇水期には十分な発電量が確保できなくなりました。このため、1927年(昭和2年)魚沼水力電気と共同で宮野原発電所を建設し、中央電気や北越水力電気からも供給を受けて送電を行いました。1936年(昭和11年)、保倉川電気は魚沼水力電気と合併、1938年(昭和13年)には本社が高田市にある中央電気に吸収されました。
なお、茂勝は1926年(大正15年)当時、長野県境の信濃川支流にあった志久見川電力の専務も務めるなど電力事業に力を注ぎましたが、1944年(昭和19年)に亡くなりました。

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