ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

石田善佐

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

「雪の石田」と呼ばれた人

石田 善佐 (いしだ ぜんさ)

生年1893 没年1947

民主主義のもとに

石田善佐は、1893年(明治26年)、顕聖寺村(現浦川原区顕聖寺に生まれました。「油屋」の屋号を持つ生家は村内では随一の資産家であり、不自由ない少年時代を送りました。
1907年(明治40年)には県立高田中学校(現県立高田高等学校)に入学、その後早稲田大学政治経済科へ進学しました。自由な校風のなかで政治を学んだ善佐は、民主主義の大切さを身につけていました。
1920年(大正9年)、善佐は郷里へ帰る道を選択しました。腐敗した中央政治を嫌ったのだと言われています。高田へ戻った善佐は「高田日報」の主筆となり、さらに同志とともに「高田時事新報」を創刊し、その社長に就任しました。

「雪の石田」の異名

善佐は1923年(大正12年)には市議会議員に当選、また1927年(昭和2年)からは県会議員も務めています。市民の暮らしや権利を最優先にする政策を推し進めますが、その中でも特に、「雪」の克服に力を注ぎました。雪を天災としてあきらめることなく、雪を克服し市民の生活を守ろうという運動を進めていきます。
善佐自身の著書「雪に生活する」によって、雪害対策運動が起こり、善佐は日比谷公園で演説会を行い、その演説は全国に向けてラジオ放送されました。このように、雪害克服への取り組みから「雪の石田」の異名をとるようになるのです。
また、善佐は高田に裏作研究のため農業試験場を誘致しています。高田測候所の誘致、商工会議所の設置などにも尽力しました。

平和を訴えて

軍部の台頭が目立ち始めた昭和の初め、次第に政党や政治家の声がかき消されていくなかでも、善佐は平和を訴え軍部の独裁に対して非難の声を上げ続けました。また、1942年(昭和17年)には国会議員となり、ここでも常に平和と国民の幸福を訴えました。しかし、その叫びはむなしいまま、1945年(昭和20年)、日本は敗戦を迎えることになります。
1947年(昭和22年)、善佐は高田で静かに息を引き取りました。54歳でした。

関連ページ