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金子富作

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

名立谷石油を開発した

金子富作(かねことみさく)

生年1853 没年1935

飛山村に石油が出る

金子富作は1853年(嘉永6年)に飛山村(現名立区東飛山)で彦八の長男として生まれました。
1876年(明治9年)、工部省のお雇い外国人ライマンが東飛山・瀬戸地内に地質調査に入り、石油開発に有望な土地との考えを示しました。
ただちに、全住民が発起人となり、1万坪を鉱区とする開発事業を政府に出願し、1879年(明治12年)9月に第1号井を、11月に第2号井を開坑しました。富作は各坑の大口株主として出資し、現場では自ら掘削にあたりました。翌年6月、最初の出油が第2号井から144リットルありました。この出油祝賀会で製油所の建設が決まり、富作は鴨島村で灯油の製造法を学びました。帰村後、岩屋堂の観音堂付近に精油所を建設して、大量の原油を毎日運び製油を行いました。

名立谷石油株式会社の設立

1888年(明治21年)、名立谷石油株式会社が設立されました。初代社長は沢田太郎吉、坑場長監督が富作でした。原油産出の最盛期は1891年(明治24年)の記録で、4737石(約85万リットル)、代価14,053円でした。富作は現場監督、経理から人事管理など実務を担当し会社を支えました。1896年(明治29年)、会社は増産を図るため高価な米国の機械を輸入して掘削を開始しました。しかし、少しの石油が出ただけで採算がとれず、会社は1900年(明治33年)に越山石油に売却されました。その後、鉱区は新日本石油などが引き継ぎ、昭和20年代まで採油が行われました。
なお、1897年(明治30年)、親戚の金子徳太郎は石油ブームによる浪費を憂い、山瀬銀行を東飛山に設立しました。富作はこの山瀬銀行にも積極的に支援を行いました。銀行は1907年(明治40年)、高田町に本店を移して高田商業銀行と改名し、のちに第四銀行に合併されました。
1935年(昭和10年)、富作は石油事業の詳細な記録を残して82歳で亡くなりました。

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