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笠原克太郎

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

頸城地方の近代化に貢献

笠原 克太郎 (かさはら こくたろう)

生年1838 没年1898

第七大区長を務める

笠原克太郎は、1838年(天保9年)文右衛門の長男として田村新田村(現大潟区潟田)に生まれました。父は新堀川の掘削者として、また大川と号する学者としても有名でした。克太郎も幼少期から父の私塾磨不磷堂(まふりどう)に学びました。1868年(慶応4年)、克太郎は触元大肝煎(ふれもとおおぎもりいり)となり、 1871年(明治4年)高田藩庁の郷長、翌年には第七大区の大区長、1874年(明治7年)には地租改正顧問官を歴任しました。

産業経済の振興に取り組む

1878年(明治11年)、克太郎は旧高田藩士の庄田直道らと百三十九銀行の設立に加わり取締役となりました。1882年(明治15年)には信越鉄道株式会社創設に参画し、高田町の室孝次郎らと鉄道敷設運動を展開し、その後も北越鉄道(直江津―新潟)の敷設に尽力しました。また、同時期には郷津湾の築港計画を推進して、多年に及ぶ国や県への働きかけを行い頸城地方の産業経済の発展向上に力を注ぎました。

衆議院議員に当選する

明治20年代になると、克太郎は自由党員として政治活動を活発に行いました。1891年(明治24年)、全国的な地価不均等の改めるを目的とした地価修正法案が国会に提出されました。新潟県では実質上の地租引き上げとなるため、克太郎は地租軽減を求めて反対運動の先頭にたちました。この結果、県選出議員は超党派で結束して修正案を廃案に追い込みました。 また、1893年(明治26年)には芙蓉湖(野尻湖)引水事件が起こり、長野県側に引水した後藤象二郎と水利権を持つ中江用水組合との争いの仲裁役を務めました。
1898年(明治31年)3月、克太郎は自由党の推薦を受けて、第五回衆議院選挙に当選しました。しかし、上京後まもなく体調を崩し、また8月には衆議院も解散となったため治療に努めましたが、同じ年の11月に亡くなりました。

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