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笠尾惣治

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

日本初の石油パイプラインを実現

笠尾 惣治 (かさお そうじ)

生年1848 没年1911

天皇巡幸と石油採掘

明治期の上越地域は、空前の石油ブームに沸きました。
1878年(明治11年)9月の明治天皇巡幸の際には、展示されていた削井櫓の模型が明治天皇の目にとまり、当時の工部卿・井上馨が荻平(現清里区)の採油現場の視察を行いました。

笠尾惣治と日本最初の石油パイプライン

笠尾惣治は、1848年(嘉永元年)12月に深沢村(現清里区上深沢)で生まれました。明治に入って1881年(明治14年)には、板垣退助が新潟遊説の際に立ち寄り、惣治の家で一泊したといいます。
当時の清里区の油田は採掘した原油の移送を人力に頼っている状況でした。そこで関係者は、1878年(明治11年)10月、県に対し「石油運搬之義ニ付鉄管架設願」を提出。その際、惣治にはパイプライン敷設用地と工事の責任者として白羽の矢が立ったのでした。こうして、惣治監督のもと、総延長2.2キロメートルにわたるパイプラインの敷設が始まります。太さ2インチ半のパイプラインの鉄管は工部省工作局が東京で製造し、海を渡り、関川を登り、稲田から陸路で荻平まで運ばれてきたのでした。同時に進行していた切石舗装道路改修は翌1879年(明治12年)の7月、パイプラインに先がけて完成。惣治の日記によれば、4,525俵もの土俵を使用したといいます。日本初となる石油パイプラインは同年11月に完成。総工費3,719円77銭5厘におよぶ大工事でした。

鉄管会社と油田の終焉

パイプラインの経営母体は「鉄管会社」と呼ばれました。会社の運営には惣治があたり、1年ですべての借用金を返済することができました。全国の先端を行く切石道路とパイプラインによる効率化のたまものだったということができます。
惣治はその後、上越石油合資会社の社長を務めるなど長く石油産業に携わるとともに、郡道の開通や小作争議の解決に努めるなど、地元のために尽くしました。
惣治の孫、昊文(ひろふみ)は「清里村史」の著者として知られています。昊文は「文字通り驚天動地の噴油を見せた櫛池の山野も、今は静寂に帰った」と莫大な利益をもたらした油田の終焉を締めくくっています。

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