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川合直次

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

文人でもあった政治家

川合 直次 (かわい なおじ)

生年1874 没年1938

直江津生まれの少年

川合直次は、1874年(明治7年)2月21日直江津の川端町(現上越市中央三丁目)で廻船問屋を営む謙蔵の長男として生まれました。
幼少期から漢文を学び、 1886年(明治19年)高田学校(現県立高田高等学校の前身)に入学しましたが、父の急死により退学して家業を継ぎました。

文人としての才能に優れる

直次は、家業に従事しながら吟風との号を有し、俳句・詩歌などの文芸活動に力を注ぎました。彼は小川未明、相馬御風、増村度次(朴斎)らの文人と親交を結び、1899年(明治32年)には尾崎紅葉を直江津の三宜楼などで歓待しました。また、佐々木信綱が主宰する竹柏会に属して、1903年(明治36年)から1938年(昭和13年)までに1276首の和歌を詠み、これは「吟風遺稿」として出版されています。

政治家への道

1899年(明治32年)、直次は中頸城郡会議員となり、その後新潟県会議員を経て、1912年(明治45年)衆議院議員に当選しました。しかし、1915年(大正4年)3月の衆議院総選挙に当選後、加藤高明からの選挙費用5,000円の使いみちが問題となり失格となりました。

高田市長として活躍

1924年(大正13年)10月、河島市長辞任のあと直次は高田市長に迎えられました。当時の高田市は第十三師団及び中頸城郡役所の廃止など難問を抱えていましたが、11年間の在職中に上下水道の完成、町名改正、職業安定所や託児所などの設置、謙信公祭や観桜会、スキー祭の実施など多くの功績を残しました。
1936年(昭和11年)2月、直次は高田市長を辞職し、衆議院議員に当選、翌年4月の総選挙にも再び当選しましたが、1938年(昭和13年)8月、議員の任期中のまま直江津の自宅で亡くなりました。

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