近代日本美術史に残る日本画家
生年1883 没年1957
1883年(明治16年)2月11日小林古径は、高田土橋町(現・上越市大町一丁目)に生まれました。本名は小林茂といいます。幼い頃から絵が好きだった茂は、11歳の頃から山田於菟三郎(やまだおとさぶろう)や青木香葩(あおきこうは)のもとで日本画の手ほどきを受けていました。
1899年(明治32年)、画家の道を志した16歳の茂は、上京して新進気鋭の画家である梶田半古(かじたはんこ)に入門し、「古径」という雅号を受けました。古径は師から写生と画の品格の重要性を学び、同年の第7回日本絵画協会・第2回日本美術院連合絵画共進会に「村上義光」を出品して、画家としての第一歩を踏み出しました。
1914年(大正3年)、第1回再興院展に「異端」を出品して入選、日本美術院の同人に推挙されました。これを機に、古径は日本美術院の中心的な画家として活躍し、その後も「竹取物語」や「罌粟(けし)」などの作品を発表して高い評価を得ました。1922年(大正11年)には日本美術院留学生として欧州に留学、前田青邨とともに大英博物館で伝顧がい之(でんこがいし)の「女史箴図巻(じょししんずかん)」の模写に従事するなど、画家として貴重な経験を積み重ねていきました。
留学後も精力的に創作活動を続け、「清姫」「髪」など、後に古径の代表作となる作品を次々と発表しました。また、1944年(昭和19年)には東京美術学校(現東京藝術大学)の教授に就任して後進の指導にもあたりました。
終戦後、疎開先の山梨県から東京南馬込の自宅に戻り、制作活動に専念します。この頃になると、古径は近代日本画壇を代表する画家としての地位を名実ともに築き上げます。1950年(昭和25年)には、画壇での長年の功績を称えられ、新潟県人で初となる文化勲章を受章しました。簡潔な画面構成の中に美しい描線と清廉な色彩を用いて対象を的確に捉えた作品は、古径芸術の一つの到達点であり、その芸術性は日本の美や精神性そのものを表現しているといえます。
1952年(昭和27年)、69歳の古径は院展最後の出品作となる「菖蒲」を発表します。その後、体調悪化のため入院を余儀なくされた古径は、病床でも制作を続け、最後まで創作への意欲は衰えませんでしたが、1957年(昭和32年)4月3日、74歳の生涯を閉じました。