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小山作之助

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

日本音楽教育の功労者

小山 作之助 (こやま さくのすけ)

生年1864 没年1927

潟町村に生まれる

1864年(文久3年)小山作之助は、潟町村(現大潟区潟町)で父 作八と母 トヨの長男に生まれました。 1878年(明治11年)地元小学校を卒業後、父の経営する石油事業を手伝いながら、夜は元高田藩士族小島堅吉の私塾で2年間漢学を学びました。

東京音楽学校の教授となる

1880年(明治13年)作之助は上京し、大学予備門で一時学んだ後、築地大学(現明治学院大学)を経て、1883年(明治16年)東京音楽学校(現東京芸術大学)の前身である文部省音楽取調掛(とりしらべがかり)に入学しました。作之助は、学業優秀及び品行方正で6円の官給手当金を受け、1887年(明治20年)の卒業後も研究生となりました。その後、同年には同掛を発展改称した東京音楽学校の教壇に立ち、1892年(明治25年)の専任助教授就任を経て、5年後には教授になりました。

「夏は来ぬ」などの作曲をする

1891年(明治24年)作之助は、最初の作曲集「国民唱歌集」を発表、この中には好評を得た軍歌「敵は幾万」が含まれました。また、「重音唱歌集」などの唱歌集や多くの校歌を作曲しました。とくに、代表曲となる佐佐木信綱作詞「夏は来ぬ」は現在も日本を代表する唱歌として親しまれています。

数多くの要職を歴任する

1905年(明治38年)、作之助は東京音楽学校を退きますが、東京高等音楽学院(現国立音楽大学)、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)などの設立に関わりました。また、日本教育音楽協会初代会長、小学校唱歌教科書編さん委員、日本楽器(現ヤマハ)顧問などの要職に就き多忙な日々を送りました。
1927年(昭和2年)6月27日、作之助は原稿執筆中に突然体調をくずし、65歳で亡くなりました。

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