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前島密

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

日本近代郵便制度の父

前島 密 (まえじま ひそか)

生年1835 没年1919

上野房五郎の誕生

前島密は、まだ江戸時代だった1835年(天保6年)、高田に近い下池部村(現上越市下池部)の上野家に生まれ、房五郎と名づけられました。高田の私塾文武済美堂(ぶんぶせいみどう)に通い、さらに江戸に出て医学や外国語の勉強を続けました。
江戸で、ペリー来航の騒ぎを目の当たりにした房五郎は、外国に関する知識が必要であることを痛切に感じるようになります。その後、諸国を遍歴して知識や技術を身につけていきました。

漢字廃止論と東京遷都論

1866年(慶応2年)、房五郎は幕臣前島家の養子となり、名前を「来輔」、さらに「密」と改めます。外国語に堪能だった密は、日本人が漢字やひらがななど複数の文字を学ばなければならないことを無駄と考え、かなだけを学べばよいという意見書を将軍に提出しています。また、明治政府が成立した直後には、新政府が大阪への遷都を考えていることを知り、東京への遷都を強く訴えています。これらのことから、密が慣習にとらわれない合理的な考え方を持った人だったことが分かります。

日本近代郵便制度の父として

江戸時代、手紙は飛脚が運んでいましたが、主要な都市の間でしか利用でき ず、届かない場合もしばしばありました。明治政府に任官を果たした密は、郵便制度の確立に奔走します。飛脚制度を廃止し、「郵便」「切手」「はがき」などの名称を定めました。
消印や特定郵便局の制度も密によるものです。こうして1872年(明治5年)には日本全国津々浦々にいたるまで、同じ料金で手紙が配達される郵便制度がスタートしたのでした。
このほか密の業績は、現在の日本通運や日本郵船の土台となる会社の設立、北越鉄道の開通などの物流分野のみならず、東京専門学校(現早稲田大学)の二代校長への就任、盲唖学校の創立など教育分野にも及んでいます。
1902年(明治35年)には男爵の位を授与され、晩年は貴族院議員としても活躍しました。
日本の近代化に数々の貢献をした密は、1919年(大正8年)、 神奈川県の別荘で死去しました。出生地である上越市下池部には記念郵便局に併設して記念館が建てられ、その業績を伝えています。

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