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丸田治太郎

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

台湾製糖の発展に尽くした

丸田 治太郎 (まるた じたろう)

生年1886 没年1942

台湾製糖に入社する

治太郎は1866(慶応2年)、下保倉村(現・浦川原区)横川で、父 定一郎、母 ステの長男として生まれました。慶應義塾に学び、卒業後は安田銀行を経て、勧業銀行に勤務し、ここでのちに農林大臣となる山本悌二郎と出会いました。山本が台湾製糖の支配人になったとき、治太郎は見込まれて同じ会社に入りました。台湾製糖株式会社は日清戦争後の1900年(明治33年)、日本領となった台湾で砂糖製造のために設立された三井系の会社です(現在の三井製糖株式会社)。

台湾製糖発展の基礎を築く

治太郎の最初の仕事は、自営農場の設立にむけた土地の売買でした。当時の台湾は治安が悪く、仕事は進みませんでしたが、治太郎は忍耐強く地主の説得にあたり交渉をまとめました。台湾製糖が広大な自営農場を持ち、安定した会社経営を可能にした背景にはこのような彼の苦難と尽力がありました。その後、治太郎は常務取締役になりました。大正期から昭和初期にかけて、彼の縁をたより東頸城郡内から多くの人々が農場労働者として台湾へ出稼ぎに行きました。
1914年(大正3年)から1918年(大正7年)まで、東頸城郡全体では1011人(延人数)、1918年は安塚村68人、下保倉村17人の台湾への出稼者数の記録が残っています。
日中戦争が始まり、1938年(昭和13年)武漢陥落行事の提灯行列に国内が浮かれているとき、治太郎は直江津町出身で北京在住の後輩中沢正治(日満製粉社長)に手紙を送り、戦争の長期化を憂慮していました。また、太平洋戦争が始まると敗戦を予告していたと伝えられています。
1942年(昭和17年)、治太郎は東京都池袋の自宅で亡くなりました。墓は浦川原区顕聖寺にあります。

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