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丸山豊次郎

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

高田日報を創刊した

丸山 豊次郎 (まるやま とよじろう)

生年1868 没年1933

牛乳搾取業をはじめる

丸山豊治郎は、1868年(慶応4年)1月27日、武士村(現清里区武士)に与三左衛門の長男として生まれました。慶応義塾で学んだ後、旧高田城内で牛15頭を飼って牛乳搾取業「高栄舎」を創業しました。

政友会系の政治家として活躍する

1898年(明治31年)、豊治郎は菅原村長となり政治家として出発します。 1907年(明治40年)中頸城郡会議員を経て、1912年(明治45年)には政友会の公認を受けて衆議院議員に当選、合計で3期務め、中央政界で活躍しました。

高田日報を創刊する

1907年(明治40年)の春、乳牛の飼育場などが高田町に設置される第十三師団の用地となり、豊治郎は多額の移転料を受け取りました。彼はこの資金をもとに石坂群治郎所有の印刷所を譲り受け、高田町杉の森(現上越市仲町三丁目)に社屋を構えて、政友会系の新聞「上越日報」を発行しました。主幹には福岡日日新聞記者の武田徳三郎を迎えています。
1907年(明治40年)7月10日の創刊号第1面は、武田による発刊の辞と政友会総裁の西園寺公望の揮毫を配し、尾崎行雄や原敬など有力者の祝辞を各ページに掲載しました。翌年11月1日、同紙は第十三師団の高田町入城にあわせて「高田日報」と改題し、その後も地元記事と文芸欄の充実を特色に発行部数を伸ばしました。

道路開鑿や簡易水道を敷設する

昭和初期、豊治郎は地元諸問題の解決に積極的に取り組みました。新たな道路の開鑿に加えて、地元の武士では永年に及ぶ水争いの禍根を断つ水利権の確立を図りました。また、1933年(昭和8年)4月には良質な飲用水を利用できる簡易水道の敷設に着工し、同年6月に竣工式を行いました。その翌月、晩年を地元開発に尽した豊治郎は65歳で亡くなりました。

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