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増田義一

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

日本の財政界に名を馳せる

増田義一(ますだぎいち)

生年1869 没年1949

上越立憲改進党に入党

増田義一は、1869年(明治2年)戸狩村(現板倉区戸狩)に生まれました。幼名は義一郎。生家はあまり豊かではありませんでした。
13歳で代用教員となり、翌年には中等学校教員免許を取得、20歳を過ぎるころまで教員を務めました。
1889年(明治22年)、高田新聞に入社し室孝次郎や高橋文質らと親しくなり、上越立憲改進党の党員となりました。高橋文質とは出身村が近かったため、幼いころからお互いに知った間柄だったのかも知れません。いずれにせよ、文質は早くから義一の才能を見込んでいたようであり、東京専門学校(現早稲田大学)へ進学する際には学費を文質が負担しています。

「実業之日本社」を設立

東京専門学校に在籍している間も、勉学と学費稼ぎに励みながらも立憲改進党の活動に励んだ義一は、多くの政財界の著名人と交流することができました。卒業後は読売新聞に入社して活躍します。1897年(明治30年)、雑誌「実業之日本」の編集権を譲り受けることになり、同時に「実業之日本社」を設立しました。この時、資金3,000円を同郷の友であった高橋達太から借り受けています。この「実業之日本社」の経営に義一は生涯を捧げ、社の看板雑誌である「実業之日本」をはじめ、実業書はもとより少年誌や婦人雑誌などを手がけ、大きな成功を収めていくのです。1909年(明治42年)には新渡戸稲造を顧問に迎えています。

政治家として

1903年(明治36年)、義一は同郷の中村十作による人頭税廃止運動に協力し、国会請願を果たすなど、議員になる以前からその人脈を活かして政界でも知られた存在でした。
1912年(明治45年)には、高橋文質の後援を受けて中頸城郡から衆議院議員に立候補し初当選を果たし、さらに1923年(大正12年)に再び衆議院議員に当選、その後、副議長や予算委員長などを歴任し、1946年(昭和21年)に公職追放を受けるまで20年余りにわたって衆議院議員を務めました。
1949年(昭和24年)、79歳で死去しています。

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