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増村朴斎

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

有恒学舎を創設した教育者

増村朴斎(ますむらぼくさい)

生年1868 没年1942

針村で生まれた神童

1868年(明治元年)、増村朴斎(本名度次)は針村(現板倉区針)で父 増村度弘、母 ちくの次男に生まれました。朴斎は針小学校に入学後、8歳で諏訪神社大幟の文字を書き、11歳で漢詩を作るなど村民から神童と称されました。

郷土子弟の教育を夢見る

朴斎は14歳で上京して国学者南摩羽峯(なんまうほう)の教えを受け、15歳で大瀁村百間町(現頸城区百間町)の井部健斎の温知塾に学びました。さらに、 1885年(明治18年)、朴斎は再び上京し、羽峯の助言を受けて斯文黌(しぶんこう)に学びました。ここで郷土子弟を育てる夢を育み、とくに明六社の啓蒙思想家西村茂樹から有恒学舎教育の支柱となる道徳至上主義を学びました。
この教えは、「先公後私」など有恒精神「三綱領」として現在も受け継がれています。

有恒学舎を設立する

1895年(明治28年)、朴斎は新潟県から有恒学舎設立認可を受け、翌年4月10日針の浄覚寺を仮校舎に有恒学舎を開学しました。5月には勝海舟書「有恒学舎」の額が哲学館大学(現東洋大学)創立者井上円了から届けられ、7月29日に沖ノ宮校舎が完成して盛大な開校式が行われました。

学舎経営と郷土の教育に尽力する

学舎設立後の朴斎は、自ら倫理の授業を受け持ち、力量ある教師を全国から招きました。
会津八一は1906年(明治39年)から4年間英語教師として教壇に立ちました。また、新渡戸稲造、徳富蘇峰ら多くの著名人が学舎を訪れました。
1921年(大正10年)朴斎は新潟県教育会長に就任し、その後も中頸城郡教育会長など要職を務め郷土の教育に尽力しました。
朴斎は1942年(昭和17年)、74歳で亡くなりましたが、有恒学舎は1964年(昭和39年)県立有恒高等学校となり、朴斎の建学精神は引き継がれま した。同校の隣には増村朴斎の邸宅跡地があります。

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