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森成麟造

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

漱石の主治医・上越考古学の草分け

森成 麟造 (もりなり りんぞう)

生年1884 没年1955

考古学との出会い

1884年(明治17年)2月13日、森成麟造は真荻平村(現安塚区)で生まれました。父・章治は真荻平村の戸長や菱里村の村会議員や村長を務めました。1897年(明治30年)には、中頸城郡立中頸城中学校(現・高田高等学校)に入学。在学中に考古学と出会い、小川健作(未明)らとともに考古遺物の収集をしていたといわれています。

夏目漱石の主治医

中学を卒業した麟造は、医師になることを夢見て仙台の第二高等中学校医学部(現東北大学)へ進学します。 1906年(明治39年)に卒業し、東京の病院に勤務することになりました。 22歳のときのことです。この東京の病院に勤務していたとき、麟造にとって大きな出会いがありました。文豪・夏目漱石が病院に入院してきたのです。ひどい胃病を患っていた漱石は、麟造の治療によって快方に向かいました。ところがその後、療養のため滞在していた伊豆修善寺で、漱石は大量の血を吐き、重態に陥ります。麟造は東京からかけつけ、必死の治療を行い、漱石の命を救ったのでした。この時、麟造は漱石を通じて、多くの文化人と面識を持つことができました。

高田の名士として

漱石の胃病を治療した翌年、麟造は高田へ帰ることになりました。故郷に帰った麟造は、下田屋(現板倉区)の石黒志佐子と結婚、さらに本町2丁目に森成医院を開業することになります。
麟造は医業のかたわら、漱石を偲ぶ句会を行なったり、演奏会を開いたり、大手町小学校のPTA会長を長く務めたりするなど、文化活動にも力を入れました。とくに、中学時代から好きだった考古学には熱を入れました。1950年(昭和25年)に仲間とともに結成した上越郷土研究会は多くの若い歴史研究者を輩出することになります。また、その機関誌「頸城文化」は多くの優れた歴史論文を掲載し、現在も麟造たちの志を受け継いで刊行が続けられてい ます。
1955年(昭和30年)9月16日、麟造は死去しました。71歳でした。