ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本山健治

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

東頸城郡内に民権思想を紹介

本山 健治 (もとやま けんじ)

生年1848 没年1919

初期の県会で活躍

本山健治は、1848年(嘉永元年)、新保古新田村(現上越市大字新保古新田)の野口家に生まれ、幼くして菖蒲村(現大島区菖蒲)の本山家の養子になりました。1873年(明治6年)、第六大区戸長となり、以後は十一大区小五区の戸長などを歴任、1879年(明治12年)には県議会開設とともに東頸城郡選出の県会議員となりました。その後、病気のため政治活動を休止しましたが、1884年(明治17年)に再度選出されて県会で活躍しました。

自由民権運動に加わる

1880年(明治13年)3月、健治は飯田茂三郎と菖蒲村で50余名参加の講和会を開催し、民権思想を紹介しました。同年4月の鳴鶴社には健治も含めて111名の参加があり、頸城自由党ができるまで国会開設運動を展開しました。
1881年(明治14年)11月、頸城自由党が結成され ました。高田町に本部を置き、頸城三郡に甲乙丙丁の各支部を置きました。東頸城郡は仁上村に支部を置く丁部となり、健治が支部委員を務めました。この時期、健治は鈴木昌司と連携して自由民権運動を展開しました。

上越立憲改進党を結成する

健治は頸城自由党に入りましたが、幼なじみの前島密の支援を受けて、1882年(明治15年)上越立憲改進党の結成に加わりました。これを機に、頸城の政界は自由党系と改進党系の二つの党派に分裂しました。翌年3月、高田事件が発生し、急進派の頸城自由党は勢いを失いました。

衆議院議員になる

1890年(明治23年)、健治は第一回衆議院選挙に当選、1892年(明治25年)第二回総選挙にも再選されました。前島や尾崎行雄らとの親交もあり、同志の信頼が厚い健治は、中央政界においても活躍しました。
東頸城郡に民権思想を紹介し、新潟県農工銀行監査役などの要職を務めた健治は、1919年(大正8年)に亡くなりました。

関連ページ