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本山久平

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

輪島高等女学校創立に尽力した

本山 久平 (もとやま きゅうへい)

生年1885 没年1974

仁上村出身の勉強熱心な少年

1885年(明治18年)本山久平は、仁上村(現大島区仁上)で双子の五男に生まれました。しかし、生後まもなく菱里村大字須川(現安塚区須川)に農家の里子に出され、小学校入学まで預けられました。
実家に戻り仁上尋常小学校を卒業後、久平は金谷村大貫(現上越市大貫)の知人宅に住むと、高田の図書館に通い勉強に励む毎日となりました。

検定合格により教員となる

1900年(明治33年)、久平は菖蒲尋常小学校の代用教員になりました。その後は独学で教員検定試験に合格し、正教員として新潟市内の鏡淵小学校などで勤務しました。さらに勉強を続けた久平は、国語漢文、地理歴史の検定に合格して高等師範卒業同等の免許を取得、旧制中学校の教師に採用となり、新潟県立村上中学校(現村上高等学校)、石川県立第三中学校に勤務しました 。

輪島高等女学校の設立に尽力する

1926年(大正15年)3月、久平は石川県輪島町立高等女学校開設の命を受けました。ただちに久平は、校長として開校準備に取り掛かり、有能な職員を全国から集めました。授業は臨時に郡公会堂等を使用、9月に県知事を迎えて新校舎落成式を行いました。同校は1928年(昭和3年)3月県立に移管になり、翌年4月、大任を果たした久平は同町の県立輪島中学校(現輪島高等学校)校長に異動しました。

郷里にもどり農地改革などに努める

1934年(昭和9年)久平は49歳で家督を相続し、群馬県立館林中学校(現館林高等学校)校長を最後に実家に戻りました。その後、大政翼賛会に属して、1945年(昭和20年)新潟市の会議で「正直者に馬鹿を見させないで欲しい」との発言が話題になりました。戦後は新潟県農業委員や大島農協の幹事役を務め、1974年(昭和49年)89歳で亡くなりました。

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