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村松苦行林

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

書家・篆刻家・歌人であった文人村長

村松 苦行林 (むらまつ くぎょうりん)

生年1889 没年1972

下保倉村に生まれる

1889年(明治22年)4月25日、村松苦行林(本名 正治)は、下保倉村大字菱田(現・浦川原区菱田)に父 茂三郎、母 イツの長男に生まれました。高田中学校(現・高田高等学校)を経て、1909年(明治42年)早稲田大学に入学後は、同郷の小川未明、松岡白虹らと文芸誌「北方文学」を舞台に村松密猟船のペンネームで投稿し約2年間活躍しました。

下保倉村長をつとめる

1913年(大正2年)、苦行林は父の厳命により帰郷し家督を継ぎました。
その後、1923年(大正12年)からは約20年間下保倉村長を務め、村内のみならず東頸城郡内の町村会長として住民生活の向上に力を注ぎました。
1927年(昭和2年)には農民座を結成、自らの脚本で演劇活動を行い、不況で疲弊した頸城各地の農山村の活性化に努めました。

文芸活動に力を注ぐ

昭和初期、苦行林は地元新聞などを通して活発な文芸活動を展開しました。演劇に加えて句会、歌会の開催、民話や童話の講演などを活発に行い、1933年(昭和8年)には弟 松下英治と歌集「雪景」を発行しました。
また、小川未明や相馬御風との交友も知られ、彼らの生涯にわたる良き理解者となりました。

篆刻家、歌人として活躍する

1957年(昭和32年)、苦行林は66歳で大東文化大学研究生として書道と篆刻を学びました。とくに篆刻は優れ、高田浄興寺山門「浄興寺」の額、旧高田図書館の標柱などの作品が残されています。
また、歌人としては1938年(昭和13年)改造社版「新萬葉集」と現在の講談社版「昭和萬葉集」に作品が掲載されました。1971年(昭和46年)、苦行林は久比岐文学社「紫」を発刊しました。翌年、苦行林は83歳で亡くなりますが、同誌は苦行林の没後も発行され通巻154号を数えました。

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