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西條太造

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

石油・石炭事業に力を注いだ

西條 太造 (にしじょう たぞう)

生年1848 没年1920

村長として活躍する

西條太造は1848年(嘉永元年)湯谷村(現・牧区下湯谷)に生まれました。1879年(明治12年)、湯谷村は下湯谷村と改称し、太造が戸長を務め、明治政府の施策徹底及び徴兵・税務などの事務作業を担当しました。1889年(明治22年)、町村制施行により川邊村が生まれると、太造は1891年(明治24年)から1893年(明治26年)まで、村長を務めました。
さらに、1901年(明治34年)に川邊・里見・川上の各村が合併して牧村が誕生しました。太造は1907年(明治40年)から1911年(明治44年)まで村長を務め、大きな紛争になった役場の移転問題を解決しました。また、学校統廃合の問題などの難題解決にも取り組み、彼の行政手腕は高く評価されました。

牧油田の開発に取り組む

明治10年代、頸城郡の各地で石油開発がすすめられ、明治30年代には日本石油、長岡興業などが機械による掘削を行いました。太造は若くから高田石油会社設立に参加するなど石油事業に関心がありました。彼は独自の事業として「西東鉱業組合」を運営し、1909年(明治42年)に宝田石油と契約を結びました。鉱区は櫛池村(現・清里区)大字東戸野にあり、5本の井戸で掘削を行いました。1910年(明治43年)には、約24石の出油量をみましたが、翌年には産出量が激減し、経営が困難になりました。
1895年(明治28年)、太造は川邊村の天然ガスを利用したガラス製造会社「有限責任玻品製造合資会社」の設立にも尽力し、資本金3850円のうち1000円を出資しました。
さらに、1905年(明治38年)には上牧の石炭採掘事業にも取り組み、月2万貫を産出しました。その他、太造は安塚銀行、高田貯蓄銀行などの重役を務め、郡経済界のリーダーとして活躍しました。

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