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小田嶽夫

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

第3回芥川賞受賞作家

小田 厳夫 (おだ たけお)

生年1900 没年1979

高田中学校で文芸活動を始める

1900年(明治33年)小田嶽夫(本名武夫)は、高田町竪春日町(現上越市本町1丁目)で、呉服商を営む父熊吉と母登美の間に生まれました。高田市立第一小学校(現・南本町小学校)を経て、1913年(大正2年)、高田中学校(現高田高等学校)に入ると、文芸雑誌「霙(みぞれ)」の発行や「文章世界」に短歌を投稿して入選するなど文芸活動に才能を発揮しました。

外務省に就職して中国に赴任する

1922年(大正11年)嶽夫は東京外国語学校(現東京外国語大学)を卒業、外務省亜細亜局に就職しました。局長は諏訪村出身で後に外務大臣となる芳澤謙吉でした。
1924年(大正13年)、嶽夫は中国の杭州領事館勤務となり、約4年間の赴任生活を送りました。この時期には、同人誌「葡萄園」に「傷心の町」などの作品を発表しています。

第3回芥川賞を受賞する

1930年(昭和5年)、嶽夫は外務省を辞め文筆生活に専念しました。いくつかの同人雑誌に作品を発表後、 1936年(昭和11年)「文学生活」創刊号に掲載された「城外」が第3回芥川賞に選ばれました。この作品をはじめ嶽夫の作品には、4年間暮らした中国からの題材が多く取り上げられています。

「文芸冊子」を発刊する

嶽夫は寺町2丁目の善導寺に 1944年(昭和19年)から約4年間疎開しました。この期間中に上越文化懇話会を組織し、1946年(昭和21年)「文芸冊子」を発刊しました。この本は「文芸たかだ」と改名して、現在も高田文化協会による発刊が続いています。
1975年(昭和50年)「郁達夫伝(いくたっぷでん)」で第3回平林たい子賞を受けた後、1978年(昭和53年)嶽夫の文学碑が金谷山医王寺前に建てられました。除幕式には本人も元気な姿を見せましたが、翌年6月2日、79歳で亡くなりました。

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