日本児童文学の父
生年1882 没年1961
1882年(明治15年)4月7日小川未明(本名健作)は、高城村大字五分一(現 上越市幸町)に父澄晴、母チヨの長男として生まれました。待望の子ども であった未明は、「捨て子は育つ」という当時の慣習により、3歳になるころまで隣家に預けられました。
岡島小学校(現大手町小学校)を経て高田中学校 (現高田高等学校)に学び、 1901年(明治34年)、東京専門学校(現早稲田大学)文科に入学します。未明は、少年時代を過ごした上越の自然と思い出を多くの作品に投影させています。
1902年(明治35年)、早稲田大学と改称後、未明は英文科に転科し、生涯の師 ・ 坪内逍遙と出会います。未明は逍遙の指導のもとで小説の創作に没頭し、1904年(明治37年)には文壇への処女作「漂浪児」を発表します。このとき、 逍遙がおくった筆名が「未明(びめい)」でした。1907年(明治40年)には、第一短篇集「愁人(しゅうじん)」を刊行し、その後は時に幻想性を帯びつつも、社会主義的ヒューマニズムに裏打ちされた作品を次々と生み出していきます。
1906年(明治39年)未明は島村抱月(ほうげつ)の勧めにより「少年文庫」(早稲田文学社)の編集に携わります。これを契機に童話創作にも力を注ぎ、1910年(明治43年)には童話集「赤い船」(京文堂)を出版、大正期に入ると「赤い蝋燭と人魚」、「月夜と眼鏡」など、現在も読み継がれる傑作の数々を生み出しました。 1926年(大正15年)、未明は「今後を童話作家に」(「東京日日新聞」)を発表、小説の筆を断ち、童話一本で活動していく決意を示しました。
戦後は、児童文学の発展に力を注いだ長年の功績が認められ、1951年(昭和26年)芸術院賞を受賞、 1953年(昭和28年)には文化功労者に選ばれました。故郷の春日山神社には、1956年(昭和31年)「雲の如く」の詩碑が建てられ、除幕式には未明本人も出席しました。その5年後の1961年(昭和36年)5月11日、東京高円寺の自宅で79歳の生涯を閉じました。