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大森隆碩

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

日本三番目の盲学校を開校

大森 隆碩 (おおもり りゅうせき)

生年1846 没年1903

医学と英語の英才

1846年(弘化3年)大森隆碩は、高田藩医の長男として誕生しました。幼名を繁三郎といいました。15歳からは江戸で眼科の勉強をし、1864年(元治元年)に高田で眼科医を開業します。そしてさらなる医学の上達を志し、英語を学ぶため大学南校(現・東京大学の前身の一つ)に入学します。ヘボン式ローマ字で知られる医師ヘボンにも師事し、ヘボンの和英辞典編さんを手伝うまでに英語が上達しました。

「訓盲談話会」の設立

再び高田へ戻った隆碩は自らも失明の危機を経験したことから、目の不自由な人たちの教育について考えるようになります。 1886年(明治19年)には医師や視覚障害者たちとともに「訓盲談話会」を設立し、幹事長に就任。翌年には早くも高田寺町の光樹寺(寺町2)で、目の不自由な子どもたちを集め、鍼灸・あんま、楽器などの授業を始めることになりました。この光樹寺の学校が、のちに高田盲学校へと発展していくのです。この間、隆碩は「医事会」「高田衛生会」などの医療団体の設立にも尽力しています。

高田盲学校

1891年(明治24年)、隆碩は再三の申請の末ようやく県から認可を受けて、私立高田訓矇(くんもう)学校を設立し、校長に就任します。日本で三番目の盲学校の誕生です。隆碩はその私財の多くを訓矇学校の運営費に充てていました。またこの頃、隆碩は中頸城郡立産婆養成所の設立にも貢献し、その所長も務めています。
1903年(明治36年)、療養中だった東京で亡くなりました。57歳の早すぎる死でした。
その後、1915年(大正4年)に訓矇学校は高田盲学校へと改称され、1949年(昭和24年)には県立となりました。
2006年(平成18年)春、120年の歴史を誇る盲学校は惜しまれながら閉校し、新潟県立新潟盲学校に統合されることになりましたが、隆碩が障害者に向けた熱い思いは、現在も上越の地に息づいていることでしょう。新潟県立歴史博物館には、大森隆碩と盲学校の足跡をたどるコーナーが設けられています。

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