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大瀧傳十郎

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

新潟県内の産業振興に尽力

大瀧 傳十郎 (おおたき でんじゅうろう)

生年1861 没年1944

少年期から漢学を学ぶ

大瀧傳十郎は、1861年(文久元年)梶村(現吉川区梶)に甚十郎の次男、幼名文一郎として生まれました。1877年(明治10年)、高田在住の儒者井部健斎について漢学を、さらに上京して小石川の二松学舎で漢籍を学びましたが、1880年(明治13年)、長男の死去により帰郷して傳十郎を襲名しました。

政治家として活躍する

傳十郎は、1886年(明治19年)に梶村ほか23か村の戸長となり、1890年(明治23年)の村会議員を経て、県会議員に当選、1892年(明治25年)には第11代県会議長に就任しました。その後、1898年(明治31年)には衆議院議員に当選し活躍しましたが、1900年(明治33年)、父の死去による家督相続のため中央政界から退きました。

郷土の発展に尽力する

帰郷した傳十郎は、1910年(明治43年)には自分の敷地2,000坪を提供して、旭尋常高等小学校の統合を行い、教育施設の充実に努めました。また、1917年(大正6年)「旭郷土誌」の編さんを開始、翌年には525円を寄付して旭村奨学会を創るなど教育向上に尽くしました。
産業振興では、1921年(大正10年)旭信用組合長に就任し、長期にわたり村の経済金融面の安定と発展に尽くしました。

旭村の耕地整理に取り組む

1931年(昭和6年)、傳十郎は旭耕地整理組合の組合長となると、私財数万円を投じて旭村全域の耕地整理に取り組みました。この事業は1939年(昭和14年)4 月に完了し、村民はこの偉大な事業に感謝して、彼の邸内に胸像を建立しました。
1944年 (昭和19年)11月、傳十郎は多くの人々に惜しまれて83歳で亡くなりました。
彼の功績は鉄道、バスなどの交通機関の敷設、新潟県農工銀行、成資銀行など金融機関への参画を通して、県内全域の産業経済の発展に貢献するものでした。

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