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陸川三次

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

頸南地域トラック運送のさきがけ

陸川 三次 (りくかわ さんじ)

生年1887 没年1951

藤沢焼を引き継ぐ

陸川三次は、1887年ごろ(明治20年)に父 三十郎の次男として中郷村藤沢(現中郷区)で生まれました。三次は祖父利平が焼く「藤沢焼」を引き継ぎ、芸術的な陶芸品に高めました。この「藤沢焼」は三次の祖父利平が旅行中の近江国(滋賀県)で見た陶器に魅せられ、「和漢道具見知抄」という書籍で勉強して始めた焼物です。おもな製品は樋、穀物貯蔵用の瓶や水瓶などでした。この陶器生産は利平の次男三十郎を経て、大正期に三次に受け継がれました。藤沢の諏訪神社にある左右両大臣像は三次による1915年(大正4年)の作品です。しかし、昭和初期になると鋳物生産の影響を受けて、藤沢焼は生産を止めました。

自動車運送業をはじめる

代わりに三次はトラックを購入して運送業を始めました。仕事の範囲は頸南地方をほぼ独占し、薪や割木などの運搬を主として、秋になる と新井町への米の収納で繁忙を極めました。地元では陸川運輸の「ヤマサン」マークは有名になり、早朝から会社は荷主たちで賑わいました。営業当初は運転手を雇っていましたが、三次も群馬県高崎市に通って運転免許を取得しハンドルを握りました。当時の道路は未舗装で絶えずパンクに悩まされましたが、三次はエンジンを含む車体のすべてを修理しました。会社経営の最盛期を1937年(昭和12年)ごろに迎えましたが、その後は日中戦争の長期化による経済統制の影響を受け、1942年(昭和17年)には運送業者の戦時下統制により三次も廃業を余儀なくされました。
また、三次は1929年(昭和4年)にシボレーの自動車を購入してハイヤー業も始めていました。翌年、二本木の早川永作らと、乗合自動車会社を設立しましたが、 1931年(昭和6年)、新井町の山本信太郎に権利を売却しました。
1951年(昭和26年)、三次は64歳で亡くなりました。

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