世界的な応用微生物学者
生年1897 没年1994
1897年(明治30年)坂口謹一郎は、高田鍋屋町(現東本町5)で生まれました。祖父七平は中頸城郡中城(現・頸城区中城)の富農でしたが、折からの石油ブームに乗って高田に進出し、石油精製会社を興したのでした。ところが謹一郎が生まれたのち、次第に石油ブームにもかげりが見え始め、父母の出稼ぎのため祖父に育てられるなど不遇な一時期を過ごすことになりました。
謹一郎は、高田中学校(現・高田高等学校)や東京の順天中学校などを経て東京帝国大学農学部に入学します。卒業後、高田の名家倉石家の長女カウと結婚、その後、順調に研究業績を伸ばし、 1939年(昭和14年)には東京帝国大学農学部教授に就任することになりました。謹一郎は、カビなどの微生物がどのようにして発酵を行なうのかを徹底的に研究しました。サツマイモを発酵させ航空燃料を製造することに成功したり、ペニシリンの製造に貢献したりするなど、日本の応用微生物学を、世界をリードする地位まで引き上げていきました。数々の研究所の設立 にも貢献しています。謹一郎の研究は、その後「味の素」の発見につながり、さらに現在のバイオテクノロジーなど幅広い分野でも生き続けています。
戦争中、先祖ゆかりの地である頸城村鵜ノ木(現頸城区鵜ノ木)に住宅を求め疎開していた謹一郎は、この建物を 楽縫庵(らくほうあん)と名づけ、戦後もしばしば訪れました。また、数々の学会の重職を歴任するかたわら、「世界の酒」「日本の酒」「愛酒楽酔」などの著書を出版し、また趣味だった和歌にも磨きをかけています。 1967年(昭和42年)には文化勲章を受章し、1975年(昭和50年)には天皇の御召しによって新春歌会始に出席、歌人としての面目も施しました。
「応用微生物学の世界的権威」と評され、「酒博士」と親しまれた謹一郎も、1994年(平成6年)、97歳の天寿を全うし死去しました。頸城区鵜ノ木の楽縫庵は「坂口記念館」として整備され、謹一郎の業績を偲ぶ人たちが訪れています。