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関根干城

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

鉄道を破壊して村民を救う

関根 干城 (せきね かんじょう)

生年1857 没年1932

関根家の二男坊

関根干城は、江戸時代の終わり1857年(安政4年)に福島村(現頸城区西福島)に生まれました。子どものころは禮次郎、長じて干城と名を改めます。関根家は福島村周辺の村々をまとめる 大肝煎(おおきもいり)を代々務める家でした。
干城は二男として生まれましたが、兄が病弱だったため本家の後見を務めるなど、関根家の当主に代わって活躍することになります。

南川村長

1889年(明治22年)、町村制が施行されると南川村が成立し、干城は初代南川村長に就任しました。ところが、早くに妻を亡くして子どもたちの養育に負われるなど多忙を極めたため、一時、村長を離職した時期もありました。その間、県会議員を務めるなどし、1896年(明治29年)に再び南川村長に就任することになります。干城が南川村長としての本領を発揮するのは、この2回目の村長就任期のことです。

鉄道を破壊せよ

南川用水普通水利組合の管理者でもあった干城は、分配の不公平を修正するために用水堰の改築を断行するなど地域の利益のために働きましたが、上流の水利権を持つ村から訴えられるなど、難しい舵取りを迫られることもありました。
1897年(明治30年)7月13日、連日降り続いた雨によって保倉川は今にもあふれんばかりに増水していました。これを見た干城は200数十名の村民を集め、保倉川に並行する北越鉄道の柱や砂利を取り除き、保倉川の流路を確保したり線路の反対側へ水を流したりしました。これによって保倉川の水位は下がり、南川の村民は守られたのです。しかし、干城らのこの行動は「公共物破損」の罪に問われ、警察によって250人余りの南川村民が取り調べられ、そのうち干城など49人が起訴されることになります。東京で獄舎生活をおくることになりましたが、翌年、東京控訴院では「破壊の目的は排水のためで、汽車の往来を妨害したものではない」として無罪になりました。
その後、エドウィン・ダンのインターナショナル・オイルカンパニーの進出に貢献するなどの大きな業績を残したのち、1901年(明治34年)には大瀁村の成立に伴い、南川村長を離職。その後も大瀁村村政や用水組合などで活躍を続け、1932年(昭和7年)74歳の生涯を閉じました。

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