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関野貞

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

平城宮址を発見した

関野 貞(せきのただし)

生年1867 没年1935

高田藩士の家に生まれる

1867年(慶応3年)関野貞は、高田藩榊原家の下級藩士の家に生まれました。 高田学校(現大手町小学校)に入学し、成績や生活態度が優秀だとして何度も賞を受けています。その後、高田中学校(現高田高等高校)などを経て、東京帝国大学工科大学(現東京大学工学部)へ進学し、建築学の勉強をしました。

奈良へ

貞は、大学を卒業した2年後の1897年(明治30年)、在学中から研究していた社寺建築の研究のため奈良県技師として、奈良に赴任 をしていました 。ちょうどこの年、現在の文化財保護法の前身となる古社寺保存法が制定され、この文化財保護の流れに乗って、貞は業績を伸ばしていくことになります。次々と奈良、京都の古い社寺の調書と図面を作成し、平城京大極殿址を発見するなど大きな業績を残しました。1901年(明治34年)には、東京帝国大学工科大学の助教授に任命され、さらに1908年(明治41年)には、平城京大極殿の研究成果によって、工学博士の学位を授与されています。
1905年(明治38年)2月に発表された「法隆寺金堂塔婆及中門非再建論」は、再建説を主張した喜田貞吉との間で大論争となったことで有名です。このように、貞は建築 史学者の立場から歴史学や美術史、出土瓦の分類など考古学などの広い分野で優れた先鞭的な研究を残し、現在でもそれぞれの学問分野における基礎的な研究となっています。

文化財保護の先駆者

貞が建築史の第一人者となっていたころ、日本政府は朝鮮半島や中国など大陸に目を向けていました。貞は、朝鮮・中国・インドの文化財の調査・保護においても大きな貢献をしました。その後は、文化財防災の基礎を築き、法隆寺や姫路城の解体修理の道を開くなど、現在でもその功績は大きく評価されています。
1935年(昭和10年)、貞は国宝調査旅行中に急性白血病を発病し、7月29日に68歳で亡くなりました。東京都多磨墓地に埋葬され、死後、従三位勲三等が授与されています。また貞が設計した建築として、奈良県物産陳列館(現・奈良国立博物館仏教美術資料センター)が残されています。

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