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篠田宗吉

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

番匠の名を継いだ名匠

篠田 宗吉 (しのだ そうきち)

生年1826 没年1903

第四代篠田宗吉善則

1826年(文政9年)、篠田宗吉は柿崎村(現柿崎区柿崎)の相澤彦作の三男として生まれ、幼名は庄八と称しました。小さい頃から手先が器用で頭が良く、精緻な細工を得意としていた庄八は、柏崎新町(現柏崎市西本町)の篠田家が優れた宮大工の称号である「番匠(ばんしょう)」の栄を得ていることを知り、弟子入りを決心しました。
篠田家第三代宗吉の元、熱心に修行を積み生来の技に更に磨きをかけ、第三代宗吉にいたく見込まれた庄八は、1851年(嘉永4年)養子として篠田家に迎えられ、四代目を継ぎ、名を篠田宗吉善則と改めました。

名棟梁の道へ

篠田家初代宗吉は、享保年間に大僧正より 「番匠」極伝の大事を授かったとされ、宗吉はその名に恥じぬ見事な腕前をその生涯をかけて全国の寺社に残しています。
中でも地元柏崎の番神堂は、1871年(明治4年)下宿(しもじゅく)の大火で類焼しましたが、1873年(明治6年)から4年もの歳月をかけ宗吉は棟梁として再建に当たりました。
この大事業を通じ宗吉の名が全国に知れ渡り、1888年(明治21年)には浄興寺本廟(上越市寺町)を、1896年(明治29年)には閻魔堂(柏崎市)を手掛け、遠くは高龍寺(北海道函館市、北海道の重要文化財)や東本願寺(京都市、副棟梁)など数多くの寺社を手掛けています。
名匠宗吉の残した寺社は今もその美を誇り、人々の目にその美しさを焼き付けています。

俳句に親しんだ名匠

稀代の名棟梁として大変忙しい宗吉でしたが、余暇には柏崎陣屋詰の桑名藩士竹内鬼外に俳句を学び、号は大宇と称していました。
「道芝や/ふまれながらも/春の色」(番神堂境内に残る句碑)
県内外の多くの寺社にその名を残した宗吉でしたが、1903年(明治36年)惜しまれる中77年の生涯を閉じました。宗吉の亡くなった翌1904年(明治37年)には、宗吉を敬愛する門人や知友らによる顕彰碑が八坂神社(柏崎市)に建立され、その名声を今に伝えています。

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