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鈴木昌司

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

自由民権運動に生涯を捧げた

鈴木 昌司 (すずき しょうじ)

生年1841 没年1895

富農の家に生まれる

鈴木昌司は1841年(天保12年)、代石(たいし)村(現吉川区代石)の庄屋の長男として生まれました。富裕な庄屋の長男として幼い頃から漢学を学び、青年となってからは戸長や副大区長を務めるなど恵まれた少年、青年期を送りました。

地租改正反対運動から自由民権運動へ

1873年(明治6年)、地租改正条例が発令されると、農村における権利意識が大きく高まりました。この流れは全国的な地租改正反対一揆や、その後の自由民権運動などと結びついていきました。昌司も地域のまとめ役としてこの流れに飛び込んでいくことになります。
1877年(明治10年)、昌司たちは県内初の政党明十社(めいじゅうしゃ)を、さらに鳴鶴社(めいかくしゃ)を結成します。
また、これに前後して県議会議員に立候補して当選、以後7回当選を果たし、議長も務めています。さらに、政府が「国会開設の詔(みことのり)」を発布するにあたって、鳴鶴社は頸城自由党へと発展。昌司は常にその指導的役割を果たしていきました。
室孝次郎らが上越立憲改進党を新設して頸城自由党から脱退すると、頸城自由党は急進性を増していきます。全国的にも自由党員の過激な反政府運動が続発するようになり、これに対する政府との間で摩擦が強まっていきました。

高田事件から国政進出

1883年(明治16年)3月20日、高田警察署は頸城自由党員らを逮捕・拘留しました。加藤貞盟・鈴木昌司・山際七司な どの党幹部をはじめ、赤井景韶などの急進的な青年党員まで37名が逮捕されました。この事件は、裁判所や警察による自由党弾圧目的のために起こったとされています。昌司らが集会条例違反として投獄され取調べを受けたほか、赤井の脱獄・死刑へとつながった事件に発展してしまいました。
1890年(明治23年)7月、第一回衆議院議員選挙が実施されました。昌司は室孝次郎らとともに衆議院議員に当選します。昌司は頸城自由党と上越立憲改進党の合併を図り、立憲自由党を発足させ、さらに1892年(明治25年)には第二次頸城自由党を結成しその幹事長となりましたが、この頃から体調を崩し、1895年(明治28年)4月30日、53歳で死去します。
新潟県の自由民権運動をリードし続けたその業績を称えて、吉川区代石の丘の上に昌司の頌徳碑が建てられています。

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