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松平光長の藩政

印刷用ページを表示する 掲載日:2010年12月9日更新

  寛永元年(1624年)3月、北庄城(福井県福井市)主:松平光長(まつだいらみつなが)は高田へ転封を命じられ、寛11年(1634年)2月、母(第2代将軍秀忠の娘勝子)とともに、初めて高田に入りました。
 光長の領地は頸城郡全域と刈羽・三島・魚沼三郡のそれぞれ一部、更に信濃国更級郡川中島の一部にわたり合わせた石高は26万石余でありましたが、光長の治政中(1624年~1681年)開墾が進み、実高は36万石以上になりました。
 寛永元年(1624年)から延宝9年(1681年)までの58年間の在封は、歴代の高田藩主のなかでもっとも長く、治績のうえでも見るべきものが多々あります。寛文5年(1665年)12月、夕方に起こった大地震(寛文地震)や度重なる凶作・大火に見舞われましたが、城郭内及び市中の諸施設が復興・整備され、高田を中心とする交通網も一層整えられました。現在の高田地区の町並みはほぼこの時にできました。
 延宝2年(1674年)、光長の嫡子綱賢(つなかた)が病死したことから、重臣たちは協議の末、数名の候補のなかから、光長の弟の永見市正(いちのかみ)長頼の子、万徳丸(15歳)を養子と定めましが養子候補の一人だった永見大蔵(光長の異母弟)はこの決定を不服とし、分裂抗争となりました。これが越後騒動といわれるお家騒動に発展し、最終的に、延宝9年(1681年)6月、江戸城内で、第5代将軍綱吉が自らこの騒動を裁き、光長は改易(注)されました。

(注)改易:武士の身分を奪って、領地・家屋敷を取り上げる刑罰