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高橋文質

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

政治と実業を両立

高橋 文質 (たかはし ぶんしち)

生年1860 没年1915

上越立憲改進党結成に参加

高橋文質は、1860年(万延元年)中島村(現・板倉区南中島)に生まれました。幼いころに父を亡くした文質は、叔父と母に厳しく育てられたといいます。高橋達太とは同村の生まれで、文質が7歳年長になります。文質の家は南高橋、達太の家は北高橋と呼ばれ、いずれも古くからの富農の家でした。戸狩村(現・板倉区戸狩)の私塾に学んだ文質は読書家で、毎日家の人が寝静まったあと、本を読みふけりました。
1885年(明治18年)、15か村連合村の村会議員に当選。政治家としての道を歩み始めました。その後、室孝次郎と出会い上越立憲改進党を結成。上越立憲改進党が発行した高田新聞の記者としても活躍し、のちに高田新聞社長を務めることになります。中頸城総町村連合会議員や県会議員を務めながら、高田師範学校の設置、県道三郷線の開通、さらに町村合併の推進などの業績を残しています。またこの頃同志とともに上越電気株式会社を設立しました。

国政と地域振興

すでに地元では政治・実業の両面で著名になっていた文質は、1908年(明治41年)、高田新聞社長を辞職して、第十回衆議院議員選挙に犬養毅の立憲本党から立候補し当選、犬養毅からも厚い信頼を受けることになります。しかし、第十一回衆議院議員選挙では、ふたたび高田新聞社長に強く推されたため立候補をせず、後任に同郷の増田義一を推して国政から退いたのでした。
地元に戻った文質は、国民党頸城支部長を務めながら、高田新聞社長として新聞事業の発展に尽くし、油田開発をはじめさまざまな殖産事業にも 力を注いでいます。さらに室孝次郎とともに信越線開通のために奔走するなど、地域の振興のために多くの私財と時間とを惜しみなく使ったのでした。
政治家として、また事業家として幅広い活躍をし、地域の名望家としての地位を築いた文質も、1915年(大正4年)5月16日、脳出血で生涯を閉じました。55歳の若さでした。

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