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高橋達太

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

直江津の石炭王

高橋 達太 (たかはし たつた)

生年1867 没年1934

石炭王高橋達太の誕生

高橋達太は、1867年(慶応3年)8月22日、中島村(現板倉区南中島)に生まれました。 10 代のころから村の総代として活躍し、隣村との争いを解決したり、学校へ通学する児童のために私費で橋を架けたりするなど、地元のために尽くしました。
1899年(明治32年)、直江津に高橋回漕店を設立します。しかし、直江津にはすでに、古くから廻船業を営む石塚六三郎や古川家、さらに高助運送店などが直江津港の荷揚げを行っており、当初会社の経営は困難を極めました。しかし、次第に石炭取扱量が増え、やがて達太は「直江津の石炭王」と評されるようになるのです。

高橋回漕店と直江津港の発展

1923年(大正12年)、すでに直江津商工会議所役員だった達太は、県会議員に推されて当選しました。県会議員時代には、直江津農商学校に3700 坪のグラウンド(現・港町)を寄付しています。昭和期に入って、世界的不況を迎えつつあるなか、達太は直江津港の埠頭を整備し、保倉川下流域一帯の広大な土地に貯炭場や倉庫群を現出し、独自に鉄道の引込み線を敷設するなど港湾設備の整備に努めました。達太はこの時期の直江津港を支えた重要な人物のひとりだったということができます。
1934年(昭和9年)4月27日、生涯を地域発展に尽くした達太は66 歳で亡くなりました。高橋回漕店は、直江津海陸運送株式会社と高達倉庫有限会社がその業務を引き継いでいます。

ライオン像のある建物

達太にゆかりの建造物が、今も直江津に残っています。中央三丁目の木造土蔵造りの擬洋風建築がそれで、地元では「ライオン像のある建物」として親しまれています。もとは 1892年(明治25年)に直江津銀行として建てられた建物ですが、 1915年(大正4年)の銀行解散後、達太が引き取り現地に移築し回漕店の事務所として改装したものです。洋風の建築として上越地域では最古。直江津の近代史を今に伝える貴重な建物です。

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