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高嶋米峰

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

新しい仏教の姿を追い求めた

高嶋 米峰 (たかしま べいほう)

生年1875 没年1949

代用教員から哲學館へ

1875年(明治8年)高嶋米峰は、竹直村(現吉川区竹直)真照寺住職高嶋宗明の長男として生まれ、幼名を大円と称しました。幼いころ両親を失った大円は、京都にいる父の弟 香川葆晃(かがわほうこう)に託され、植柳小学校で学び対校討論会で優勝、また作文では京都府知事賞を授与されるなど、幼い頃からその類な才能を如何なく発揮していました。
父の墓参のため帰郷した大円は、1886年(明治19年)雁子浜(現大潟区雁子浜)の冬季分教場の代用教員を務め、自分よりも年長の生徒が多い中わずか3か月でしたが無事務めを果たしました。
その後京都に戻り西本願寺文學寮(普通教校を改称統合、現龍谷大学)で学んだ大円は、病に倒れましたが打ち克ち、再び勉学に励み 1896年(明治29年)には哲學館(現東洋大学)教育學部を21歳で卒業しています。

新仏教運動を起こす

1899年(明治32年)大円は、哲學館の同窓である境野黄洋(さかいのこうよう)らと佛教清徒同志會(後の新佛教同志會)を結成し、既成教団の改革などを目的に新仏教運動を起こしました(この頃から米峰と号す)。当時の廃娼運動や禁酒運動には、先頭に立って活発に活動を展開しました。
1900年(明治33年)雑誌「新佛教」を創刊、丙午出版社を興した米峰は 、その後 1911年(明治44年)に廓清會を設立し、道徳的理想主義の立場から東京吉原花魁道中禁止、公娼制度制限法案提案などの運動を繰り広げています。

宗教放送、そして終戦へ

大正末期から昭和初期にかけてラジオの黎明期、米峰は自らの宗教観など電波を通じて多くの国民に語りかけています。幼い頃から弁舌に長けていた米峰の語り口は当時反響を呼び、大変人気が高かったと言われています。
また、米峰は1943年(昭和18年)から 1944年(昭和19年)までの1年4か月の間、母校東洋大学第十二代学長を務めています。長い間仏教運動の先頭に立ち活躍していた米峰でしたが、老齢と敗戦の打撃から、1949年(昭和24年)10月疎開先である三鷹市で74年の生涯を閉じました。

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